あの時点で、歯車が狂ってしまっていたのなら。
時を戻して、何もかもをなくしてしまいたかった。
すべてを捨てても、構わないと思えるほどに。
そんなことを脳裏に浮かべたものの、それは泡となって消えて無に還る。
そして、誰もいない静寂に包まれたロビーで、本を読みふける。
まだまだ始まったばかりで、数十ページしか達していない。
それを、いつもの場所でいつもと同じペースで読み続けた。
そんな中。歯車を狂わす者が現れる。
黒縁眼鏡で、常に人懐っこい笑みを浮かべる、あの男。
「なぁ、また会ったな。」
「あ、…はい。」
小さく返して小さく会釈する。
そしてすぐに視線を本の活字に戻した。
気にせず男はそういって、さも当たり前のように向かい側の椅子に腰かける。
この前と同じように。
「ん?今日は何読んでるん?」
「この前上巻読み終えましたので今日は下巻です。」
そう言って『罪と罰』の下巻の表紙を読みながらちらりと見せる。
前回は上巻を読んで、それが丁度終わったから続きを読む。
なんの不自然も無い、自然な流れだ。
「そや、まだ名前。言ってらんかったな。
ワシは今吉翔一。よろしゅうな。」
「…霧島蓮。」
名乗った男・今吉は『霧島、蓮かぁ。』と先程名乗った名前を鸚鵡返しした。
その鸚鵡返しにハッとして、少し失敗したと蓮は後悔する。
彼もフルネームで名乗ったから、つい同じように返したのだが、それを蓮は悔んだ。
その理由は、後々。
漸く、彼とボクが名前を名乗った気がする。
あの時は唯本を読んで、それを見ていただけで、また会おうと交わしただけ。
―――あぁ、興味がある。とも言われてたっけ。
蓮がそんなことをおぼろげ遠くにしながら考えていると、今吉が唐突に開口した。
「なぁ、ずっと思ってたんやけど…。自分なんちゅーカッコしてんのや。」
「……ボクは普通の格好してますけど?」
あぁ、そうだ。今の蓮の格好は制服姿。
此処は学校だ。学校には制服で登校する規律で、特に大きな乱れも無く、なんの不自然もない。
だが、この男・今吉は次の言葉をぶつけて証明した。
「自分、女の子やろ?」
「え…?はい、そうですけど。」
しれっと、蓮は返した。
此処でようやく、少年とも少女とも取れる蓮の性別を断言する。
彼、否彼女は正真正銘の女の子。女子。女。
だけど、セミロングに近い短い髪に中性の顔立ち。
角度や距離では男子と思われたってなんら不思議ではない。
「女の子がズボンやないやろ。」
「いや、だって、制服ですし。」
私服持参なら咎められるだろうが、一応制服だ。
なんの問題はない。
それに、スカートは似合わなくて嫌いだ。
女の子みたいに、可愛くなんて自分にはなれない。
「惜しいわー。蓮なら絶対似合うと思うのに。」
「似合いませんから…って、何どさくさに紛れて名前呼びするんですか。」
「えぇやん、そないなこと。」
いや、よくない。と蓮は反撃する。
自分自身の名前が余り好きではないからだ。
女の子らしくて、どうも好きになれない。
だったら男も女も感じさせない苗字の方が何倍もマシ。
「ま、ええわ。蓮。また会おな。」
だから、名前で呼ばないで、って言ってるのに。
恐らくあの男は、今後もボクに関わっていくつもりなのだろう。
初めて会って、初めて違う姿を一瞬垣間見た時に、危険を感じたのは恐らくそれ。
霧島蓮は、越えてはならないモノを感じて、戦慄した。
文学少年の苦悩
(『何ごとにも踏みこえることが危険な一線があります。それを踏みこえたら、もうもどることができないのですよ。』)
(戻れないならば、進むしかないのか)
(絶対的な黒で、蛮勇とも無謀とも取れる白の一閃を)