きみの質量

ー杜舞白を始末した。

詰まらない小説の結びのような一文。
その一行の中の何処にも、彼女を探せやしない。
どんな風に笑うのか、どんな顔をして泣くのか、コーヒーが飲めない癖に香りは好きだとか、薄情なようでお人好しだとか。挙げればキリがない。
そんな彼女の積み重ねた人生なんて最初から無かったかのようにたったそれだけの文字で片付けられる。
瞼が熱い。
でも、涙は出なかった。

ただあったのは、心臓を抉られたようなぽっかりとした喪失感だけ。


スマホを助手席に放り、浅く息をついてハンドルに頭を預ける。

ああ、まただ。

この感触を味わうのは何度目だろう。
目を背けたいのに、許さないとばかりに津波の様に暴力的に襲い掛かる。
否応無しに飲み込まれて、溺れて、窒息する。
そうして俺は鈍って、麻痺して、いつかは人間味さえなくなって化け物になるのだろう。

それでも、いいのかもしれない。

誰かが、諦めたように耳元で甘く囁く。
それに応えるように哀しみを享受する事に慣れてしまった、なんて零せば、君は役者にでもなるの!とからからと笑い飛ばされる事だろう。
はは、と顔を伏せたまま零れた渇いた息が熱い。

俺は、何をしてるんだろう…。

傷つけるつもりで近付いた。
死んでも構わないと思った。
あの男が大切にしているものを一つずつ、壊してやりたくて。
奪ってやりたくて。
それなのにどうだ。
さっきから瞼の裏に浮かぶのは彼女の顔ばかりで、過ごした時間の欠片ばかりで。

そんなものを、"恋しい"だなんて…。

これじゃまるで俺が失くしてしまったみたいじゃないか。
そっと、自分の左頬に触れる。

「……、」

いつかの、彼女の冷たい指先と温かい掌の感触をなぞる。
柔らかい唇の感触も、お互いの熱い息が混じって融けた温度も、チョコレートを溶かした様な甘やかな瞳に映る自分の姿も。

"安室透"を暴いて"降谷零"を引きずり出される甘い不快感も。

『…ばいばい』
「っ…」

何も変わらず息づく君の残像が、酷く息苦しい。

あんな女、出会うんじゃ、なかった…。



「、っ…」

声が、出なかった。
呼吸の仕方を忘れてしまった様に、息が詰まった。

悪い夢を見てるんじゃないのか。

チョコレートを溶かしたような瞳、癖のある髪。
瓜二つの顔立ち。
彼女が時間を紡ぎ続けていたなら、この子みたいな娘がいたのかもしれない。
そう思わせるには充分なくらいに、よく似ている。

彼女の余韻は余りにも唐突で、そして無遠慮に水面を乱していく。
そんな所すらも彼女らしいと思ってしまう自分が情けない。

「…君の、名前は?」

からからに乾いた喉を震わせて、無様に取り繕う。
僕は今安室透なのか、降谷零なのか。
境目が曖昧になる。
僕を見上げる不安そうな大きな瞳は、ぱちりぱちりと瞬きをする。
願わくば、上手く仮面を演じきれていたら良い。
今はそんな自信は無いが。

「吉野雪…」


僕は僕を殺す為に、君と出会った。

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