拝啓、誰でもない君へ。
ドリー組曲第一曲"子守唄"。
作曲家ガブリエル・フォーレが友人の幼い娘に贈ったというピアノ連弾曲。
一説にはフォーレとその友人は愛人関係で、その友人の娘もフォーレの娘だとも言われている。
耳に流れ込む音色は、記憶の中のそれよりだいぶゆっくりで、だいぶ拙い。
入院患者用の娯楽か、と天井を見上げて目を細める。
吹き抜けの天窓からは溢れんばかりの陽光が注ぐ。
病院と言うより教会に近いな。
そんな事を考えながら、歩を進める。
入院着の上にカーディガンを羽織った彼女の隣にはパジャマを着た10歳くらいの少女が腰掛けている。
前も思ったが他人に関心が無さそうなくせして存外子供好きだ。
僕に気づいて手を止めると、そろそろ病室へ戻って、と軽く少女の背中を押す。
また明日!と手を振って遠ざかる小さな背中を見つめる彼女の眼差しは酷く穏やかだ。
"ゼロ!また明日!"
耳の奥で、声がした。
「…あれも、"社会貢献"の1つですか?」
彼女は何も言わず視線だけ寄越すと、満足そうに口元の笑みを深める。
「…無事でなによりですね」
「あのまま放って置けば死んでたよ」
君の狙い通りに。
淡々と、まるで他人事の様に言う。
僕は気づいていたんですか、と軽く肩を竦める。
「それなのに僕を庇ったのはどういう了見で?」
「さぁ」
僕がしたのと同じように肩を竦めるのは意趣返しか。
「君こそ、何で私を助けたの?」
「…さあ。貴女が勝手に生き延びたんですよ」
「ー嘘吐き」
君が私を呼び戻した。
「ー貴女の歪む顔が見たくて助けた、とは思わないんですか?」
数秒、互いに黙ったまま、視線だけが重なった。
グイッと胸倉を掴んで引き寄せられる。
唇はほんの数秒重なっただけで、熱が籠る前に離れた。
「…軽率にこんな事をしたら、男は簡単に勘違いするんですよ?」
「いいよ。勘違いしても」
まただ。
少し色素の薄い瞳は、チョコレートを溶かしたみたいに甘やかな色に染まる。
男を誘う瞳。
その目に僕の姿を映す魔女は楽しそうに笑う。
「ー心にもないくせに」
彼女はそう甘く囁いてゼロ距離だった身体は離れていく。
心にもない、か。
その通りだ。
僕の心なんてどこにも無い。
だから、お前にはやらない。
髪の間を滑る彼女の指の感触にぞわり、と背筋が粟立つ。
電気が走る様に、この小さな体に支配されそうになる。
何もかもが、不愉快だ。
「ー僕は貴女が嫌いです。出会う前も、今も」
貴女も。
貴女が繋がるあの男も。
殺したいほど、憎くて堪らない。
「うん」
ほら、そうやって悪戯っ子みたいににやりと笑う顔も。
そんな顔が見たかったんじゃない。
見せないで欲しかった。
知りたくなかった。
「じゃあ、また私を殺しに来てね」
ぴくり、と眉が動く。
ふざけんな。
思わず口を突いて出そうになる言葉は飲み込んだ。
「ばいばい。安室さん」
ひらひらと手を振って友人を見送る様に僕を見送る彼女にぐっと眉間に皺が寄る。
…違う。僕じゃない。
ー拝啓、誰でもない君へ。
さようなら。
多分、好きだったのかもしれません。
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