さよならを育てる

何という名前なのだろう。

『初めまして。零』

初めて本当の名前を呼ばれた時の毒にも似た痺れ。
その感覚に心の底から怖いと思った。
脳天から爪先まで、髪の1本すらも己の意識の外に置かれたと錯覚するくらい。
彼女に何もかも支配される。
そう思った。
朝の微睡みの中に浮かぶ時のような多幸感と、重くのしかかる不快感。

『零』

よく知る自分の名前が急に知らない輝きを纏って帰って来た。
彼女の口から音になった途端に甘やかで、丸っこくて、綺麗なものになる。
空っぽの心臓に水を注がれる様なそれに名前があるとしたら、何と言うのだろう。

「…」

ぱちり、ぱちり、ぱちり。
ゆったりと瞬きをして怠い瞼を持ち上げる。
ああ。コナン君と別れて、風見に指示を出して、舞白が来て…。
経緯を思い返して随分思考が鈍ってるな、と反省する。
階下に遠くパトカーや救急車のサイレンが鳴ってる。
眠ってからそんなに時間は経っていないらしい。
今は腕を持ち上げて時計を確認するのも億劫だ。
右腕に重みを感じて見やれば、見慣れたダークブラウンが揺れる。
小さく笑って、小さな身体を抱き寄せる。
すぅ、と小さな呼吸音に呑気なものだ、と思わず笑みが零れてしまうからどうしようもない。

「…」

嘘だ。
この数日、きっとろくに寝ていなかったのだろう。
俺が、そうさせた。
この小さな身体に背負わせた。
俺の弱さも、狡さも。
ガラスケースの中の人形にしないで、と彼女は言った。
そんなのは無理だ。
そうでもしないと不安で押し潰されそうになる。

「俺は、強くなったのか…弱くなったのか…」

昔は、そんな事思いもしなかった。
大切なものは当たり前のように守れた。
明日もその先も変わらずにそこにあるのだと疑う事も無かった。
幼さ故の万能感というやつに似ている。
それは幸福な事で、だけど愚かな事だ。
今の俺は万能とは程遠い。
友も、優しさを教えてくれた人達も、かつて俺の守りたかったもののほとんどは遠い世界へ行ってしまった。
彼女だけだ。
俺の手の届く場所にいるのは。
仮面を外して"降谷零"として心を寄せる事が出来るのは。

「…状況は?」

コツ、と革靴の硬い音が響く。

「…現在は順次誘導を進めています。パニックによる軽傷者が数名。死傷者は民間人警察関係者共にいません」

そうか、と頷く。
ギリギリな状況ではあったが、どうにか及第点くらいは貰えるだろうか。

「降谷さん、まずは病院へ。酷い怪我です…」
「ああ…」

腕を貸そうとする風見に断りを入れて、代わりに彼女を頼むと言えば俺に隠れて見えてなかったのか、切れ長の目を丸く見開いた。

「一緒に連れて行く。しばらく起きないだろうからな」
「…わかりました」

とぼとぼと舞白を抱き抱える風見の後ろを歩きながら親子みたいだな、と呑気な事を考える。
おっかなびっくりな手付きが子育てし慣れてない父親のそれだ。
顔は全然似てないが。

「あの、…以前から思っていたんですがこの子は、一体…」
「、…僕の、大切な子だよ」

答えになってないと視線を向ける風見に小さく笑う。

「"Guess who?(だーれだ?)"」

真面目を絵に描いたような神経質そうな眉がピクリと動く。

「当ててみろ。公安だろう」

当てさせる気なんて最初から無いのでしょう。
貴方も、この子も。
風見ははぁ、と疲れたような溜息を吐いて舞白を抱え直す。

「彼女が何者かはわかりませんが、…」

貴方の"最愛"だって事は見てればわかります。

彼らしくない言葉選びに思わず目を丸くする。
"最愛"、か…。
俺達には似合わない、綺麗な言葉だ。
だけど、いつか訪れるさよならの為に想いを尽くす事をそう呼ぶのだとしたら、それは正しいのかもしれないな。



時よ止まれ。汝は余りに美しい。
5.1 P.M.

前へ次へ
戻る