ブリキの心臓

このままでも、いいのかもしれない。
時々、そう思う。
ぼんやりと鈍る思考の中に、もう何度目かになる淡い夢を巡らせる。
このまま普通の子供として歳を重ね、組織もFBIもあの男も関係無い穏やかな日常を送って欲しい。
今のままなら、吉野雪としてなら、それは不可能な夢じゃない。

「…馬鹿だな…」

自分自身に呆れてしまう。
そんな願いは俺のエゴでしかない。
元の姿に戻って欲しい。
だけど戻れば、彼女は俺の側にはいられない。
彼女はFBIに首輪を嵌められたホワイトハッカーだ。
杜舞白が生きてるとなれば、アメリカへの強制送還は免れ無い。
想像してみる。
彼女が元に戻って、また俺の前からいなくなって。
その時俺は彼女のいない生活に戻れるのかー。

答えはYesだ。

幸か不幸か、俺は彼女がいなくなっても生きていける。
任務だってこれまで通り遂行するだろう。
だけど、きっと恋しくて堪らなくなる。
長い間、誰かを恋しく思う事なんて忘れていた。
そんな感情は要らないと思っていたし、思っている。
それでも、きっと引き摺り出される。
あの女はそういう人間だ。
取り外して仕舞ったピースを勝手に持ち出して、俺の欠けた心臓に嵌める。
胸を掻き毟るようなその痛みで俺は思い知らされる。
心があるのだと。
いっそ、全部消えてしまえばいいのに。
喜びも悲しみも憎しみも、愛おしさも。
お前が俺に与えてくれた全部を。


『っ、…』

夕方、ポアロで見せた顔が浮かぶ。
傷付いた顔をしていた。
俺が、傷付けた。
いなくても生きていけるだなんて、どの口が言うんだか。
あんな顔を見せられただけで多少なり動揺してる癖に。

「もっと弱ければ良かったんだ…」
ーお前は…。

彼女を使う手はある。
それこそ"杜舞白"は駒として盤上でこの上無く有能に動くだろう。
だが、だからこそ盤上にあげたくない。
守りたいと言えば聞こえは良いが、結局は俺の我儘だ。
鳥籠に閉じこめて、傷つけられないように。
奪われないように。
壊されないように。
臆病な自分自身を安心させたいだけだ。それに、あれは愛玩動物なんて柄じゃないな。
傷付ける事は簡単に許すくせに、こちらが押し切らないと守らせてもくれない。
本当に、酷い女だ。

頬杖をついて、遮光カーテンの隙間から一筋溢れる光を見遣る。
関わるなと言ったが、きっと首を突っ込んで来るだろう。
あの少年と一緒に。
全く…。
正義感が強い人間は嫌いだと言ったのは誰だったか。

『零、!』

頬杖をついたまま、ゆっくり、目を閉じる。
耳の奥に声が響く。
彼女に名前を呼ばれるのが好きだ。
零と呼ぶのは2人の時だけだからか、尚更特別な響きがある。
だからこそ、俺を暴く。

「…お前に名前を呼ばれると、俺は俺を詐れなくなる…」

嘘を並べる事に痛みを感じていたのは遠い昔だ。
嘘を重ねて、偽って、何が嘘か本当か境目が曖昧になるくらい体にも心にも馴染んだ。
それなのに、彼女に名前を呼ばれるとバーボンと安室透の更に奥、誰にも見せない深い場所に隠した"降谷零"が顔を出す。
俺が偽ってたものはオーロラみたいに融けて消えてしまう。
それは幸福で、それは呪いだ。
失いたくない恐怖も、喉元を迫り上がるような愛おしさも、どれも真実だ。

だからこそ、俺は彼女に殺される訳にはいかない。



お願い。どうか私を見つけないで。
4.29 A.M.

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