神話前夜
「―こんにちは」
ある日、夜道を歩いていたコルムナに1人の少女が声をかける。
「…こんにちは」
少女の胸元には掌から溢れ出そうな程大きな鮮やかな赤い宝石が下げられていた。
「幸せそうだねぇ、コルムナさん」
「何故、僕の名を…?」
少女は言う。
街の酒場は、夢の中の女と暮らしていると言う、あんたの噂で持ちきりなのだ、と。
コルムナは酔った勢いでクレイスの事を話してしまった、と己の行動を呪う。
―さっき、あんたの家の前を通りかかった時、挨拶させて貰った。
少女は流暢にペラペラとクレイスの事を語る。
服装、髪型、髪の色…。
自分しか知る筈の無い言葉の数々はコルムナを驚かせるには充分だった。
そして少女は言う。
自分がクレイスを見る事ができるのは、胸にかかるこの魔法の目のお陰なのだと―。
そう。少女は魔女だったのだ。
「見るだけで触れる事ができない恋人なんて、寂しいねぇ」
「彼女の髪は本当に綺麗だ」
魔女の言葉はコルムナの胸の奥に秘めていた欲望を抉りだすには充分だった。
―クレイスに触れたい…あの唇に、頬に、髪に…温もりに…。
何を投げうってでも魔女の持つ“夜の宝石”を手に入れたいと望むコルムナに、魔女が提示した対価はただ1つ。
―北の造船所にある1隻の船を動かして欲しい。
そして魔女の望み通り、コルムナは宝石と引き換えに造船所の船を動かす。
コルムナの動かした船は空を飛ぶ船だった。
コルムナは自らの操る船の力に酔いしれた。
「僕の望む通りにこいつは大空を自在に飛び回る!凄い力だ!もう僕は昨日までの僕とは違う!」
コルムナは思うままに空を飛びまわった。
だが、魚の惑星では空を飛ぶ事は最大のタブーだった。
だがコルムナは空を飛ぶ。
そして、コルムナを咎めた魚の惑星の女王すらも排除し、いつしかコルムナは魚の惑星の新たな王として君臨するようになった。
「ひゃっほうー!ははははっ!」
高らかに笑うコルムナの瞳には今やただ1つのものしか映ってはいない。
―風にのって惑星を自由に飛び回る内に、いつしかコルムナはクレイスへの想いを忘れて行った。
或いはもう、その時にはクレイスの姿を見る事も出来なくなっていたのかもしれない…。
「おい、コルムナ!君はそれで良いのか!?君の幸せそのものであるクレイスを見失って、君は一体何処へ行く!」
「今はこの船があれば良い。この船があれば世界の全てはもう僕の物だ!」
―それは困る。船は私が貰う約束だ。
「これはもう僕の船だ!」
魔女はコルムナを嘲笑う。そして、告げる。
―まだ気付かないのか?最早、お前は船そのものだ。
前へ|次へ
戻る