旅立ちの旋律

「この曲…」


朝早くから1人あてもなく歩いていたなまえは、一軒の楽器店に入る。

「…綺麗な音ですね」

「―ありがとう」

ピアノを弾いていた男性は手を止め、なまえを見あげる。
短い黒髪に、眼鏡の奥の瞳は優しげで、柔和な印象を与える。

「君は、この島の学生かい?」

「はい」

「今日はサボリ?」

「今日はちょっと、行く気になれなくて…」

今更ながらサボった事を思い出し、なまえは少し罰が悪そうな顔をした。
だが男性は気にした風もなく、そうか、とだけ言う。

「行きたくないなら行かない方が良い。
息抜きした方が、次の日少し楽になる」

男性はそう言うと、にこっと微笑む。

「そうですね…」

「貴方は、観光ですか?この島の人じゃないですよね?」

「本土の方から来たんだ。仕事4割って所かな。後の6割は…―」

「昔、何度か此の島に来た事があるんだ。
ずっと来ていなかったんだけど、何だか急に懐かしくなってね」

「…シンドウ・ウイカに、会いに来たんですか?」

「え…?」

「―サクライ・カズマさん、ですよね?」

「その曲を創った―」

男性―サクライ・カズマは驚いたようになまえを見る。

「…君は、彼女の娘さん、かな?どうして僕の事を?」

「小さい頃、よく母がその曲を聞かせてくれたんです」

未発表の曲名すらない、優しい曲。
母が大切にしていたその作曲者名は“サクライ・カズマ”。

「くす…そうか。なら仕方ないな」

「この曲はまだかけだしの頃、音大生だった頃に創ったんだ。彼女の為に―」

サクライは懐かしむ様な、愛おしむ様な眼差しでピアノの鍵盤を見つめる。

「あぁ、でも、ウイカに会いに来たわけじゃないよ。それは本当。
これでも、もう妻子持ちだからね」

彼女の事は好きだったけれど、今はもう、大切な友達の1人としてだから、とサクライは笑う。

「君の名前は?」

「なまえです。マナセ・なまえ」

「なまえちゃんか。良い名前だ。ピアノを?」

「少しだけ」

「聞かせて貰っても良いかな?」

「大した演奏はできませんよ?」

「良いよ。君の音色を聞いてみたいんだ」

「くすくす…調律師らしい発言ですね」

なまえは椅子に腰かけると、鍵盤に指を滑らせる。
ピアノを弾き終えると、サクライは小さく拍手をする。

「良い音色だ。曲に感情が籠っている」

なまえは自分を見て微笑むサクライに、小さく首を傾げる。

「あの…?」

「あぁ、いや…やはりウイカの娘だと思ってね。弾き方が良く似ている」

サクライは適当に鍵盤を押す。

「ウイカも、君みたいに押し殺した感情をピアノにぶつけるみたいに弾いていた。
だからこそ、君達の音色はこんなにも感情豊かなのだろうね」

なまえは僅かに目を伏せる。

「…母は、多分この島にはもう戻ってこないと思いますよ」

「そう…相変わらずこの島が嫌いなんだね。でも、此の島には君がいる」

不意に口にしたなまえの言葉にもサクライは驚いた様子もなく答える。

「私も、いずれ此の島を出るつもりです。
だから、母も、此処に来る理由はもう無いです」

「―…君も、何か大きな選択を迫られてるんだね」

「!…」

サクライは何も言わず笑みを浮かべる。

「君の選択が、君が正しいと思える事なら、それを突き通すべきなんだと僕は思うよ」

なまえは笑みを浮かべ、目を伏せる。

「そうですね…」

「そろそろ帰ります…すみません、お邪魔してしまって…」

「いや、こちらこそ楽しかったよ、君と話せて。君を見てたら、わかったから。彼女が幸せに生きてるんだって」

「…」

「僕も幸せに生きてるって、機会があったら伝えておいてくれるかい?」

「はい」

「ありがとう。なまえちゃん」


「こちらこそ…サクライさん」

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