酸素のない世界で

ポチャン、とあの洞窟の様に水の音が響く。

上を仰げば夜空を思わせる藍色の空。
手を伸ばしても全く届きそうにないそれは夜空を思わせたが、星の瞬きも雲も風も何もない、凪いだ世界だった。

ポチャン、と、もう1度水の音がした。
ふと、足元を見れば、膝下は水に浸かっている。
淡く青い光を放つ、綺麗な透明の湖だ。
スガタはほんの少し躊躇ってから、軽く腰を屈めると右手を水に浸ける。
冷たい水の温度がひやり、と手の皮膚を通して伝わる。

此処を知らない。だけど此処を知っている。

酷く寂しいのに、何故か凄く安心する。

浸けていた手を出し、屈めていた腰を伸ばす。
掌の掬った水は指の隙間から零れ落ち、水滴が水面に波紋を立てる。

―此処が、僕の眠る場所か…。

決心は随分前からついていた。
後悔などしていないし、正しい、選ぶべき選択肢だったのだと思っている。

ポチャン…ポチャン…、と水の音の響く間隔が次第に大きくなっていく。

『―スガタ…』

水の音と同時に耳に入った声に、スガタは閉じていた目を開けると、はっ、と振り返る。

『なまえ…!?何で、君が…』

スガタは驚きに目を見開く。
なまえの白いワンピースの開いた胸元から、シルシが淡く光る。
それと同時にスガタの胸元のシルシも光りを放つ。

『シルシ、が…』

『マイアンは、ただ1つの目的の為に造られた、形を持たないサイバディ…』

『目的…?』

『うん』

なまえは軽く目を細めて笑う。


『―王様は少女をお城に閉じ込めてしまった』

なまえは眠る子供にお伽話を聞かせる様にゆったりと語る。


『少女は、王様の船を停める力を持っていたの』

なまえの言葉にスガタは目を大きく見開く。

『じゃあ、最初から、君はザメクを停める為に…?』

なまえはほんの少し困った様に微笑むと、おもむろに手を差し出す。

『戻って。スガタ。ワコ達のいる場所に』

君がいたい場所に、と言ったなまえから、差し出された手に視線を移し、スガタはぱちりと目を瞬き、再びなまえを見る。

『…君は、僕がザメクを降りた後、どうするつもりだ』

『君も、戻るんだろう…?』

なまえはスガタの言葉に困った様な顔をする。

『なまえ…』

『ずっと、苦しかったんだ…』
―あの日から…。

『…』

『ずっと苦しくて、苦しくて…だから、この苦しみも、苦しんだ時間も、全部、無意味な事じゃなかったって、証明したいんだ』

スガタは静かになまえを見つめる。
その瞳には侮蔑も同情も、何の感情も浮かんではいなかった。
そして、なまえも同じ様にスガタを見つめ返す。

『…僕に、君を見捨てて生きろって言うのか?』

『そうだよ…君や世界の為じゃない。私の自己満足の為に』

『…―』

スガタはほんの僅かに目を細めると、一歩踏み出し、なまえの頬に手を伸ばす。

『随分自分勝手な言い分だな…君を見殺しにして生きて、それで、僕が幸せだとでも思ってるのか…?』

『…』

なまえはスガタが自分にしているのと同じように、スガタの頬に手を伸ばす。

『…思わないよ。君は死ぬまでずっと、私のせいで苦しむんだろうね…。
でもそれでも君は“未来”を望んだ。
生きたいと思える居場所と人達を見つけたんでしょ…?』

『―だから君は生きるべきなんだよ』

『意味が…』

『私が望んだのは“未来”じゃなくて、“過去”だから…』
―あの人と、同じ…。

なまえはそう呟いて哀しげに、優しげに、愛おしげに目を細めて微笑む。
その蜂蜜色の瞳が自分ではない誰かを映している事にスガタは気が付いた。

『…あの男、か…』

スガタはポツリ、と呟く。

『だけど君は…』
―此処に、ザメクを停める為にいるという事は、あの男を裏切ったという事…。

そう言葉にするまでもなく、なまえはわかっている、とでも言いたげに小さく頷く。

『そうだね…裏切って、怒ってるかも』

『それでも、後悔はしてないよ』

貪欲なまでに過去を望んでるくせに君の未来が欲しいと言ったあの人には約束通り未来をあげる。
私の想いも、一緒に。

―彼は怒るだろうか?それとも、悲しむだろうか?

どちらだとしても嬉しいし、どちらだとしても、哀しい。

「…」


《あぁ。好きだよ…大切に想ってる…》

スガタにはなまえの表情が夕陽の見える公園で話した時の、ヘッドの表情と重なって見えた。

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