ほんの1ミリの誤差

―イタイ…。

「…っ…はぁ…はぁ…っ…はぁっ…」

ぎゅっ、と服に皺が寄るほど強く握りしめ、押さえつける胸の下で、心臓がどくどく、と激しく脈打つ。

―いたい…。

「っぅ、ぁ…ぁああぁぁっ…っ」

胸をまるでナイフで抉られているのでは錯覚するような鋭い痛みに、声を上げ、身体を捩る。
なまえは視線を彷徨わせ、苦しげに表情を歪め、胸を上下させる。

「っは…ぅ、ぁ…っ」

なまえが横たわるベッドと、サイドテーブル、そして壁に飾られた沢山の絵以外は何もない、窓から差し込む月明かりだけが照らす暗い部屋に、小さな悲鳴と、荒い息遣いが吐き出されては薄い音となって空気に溶ける。

―…痛い、よ…。

頭の片隅から聞こえる悲鳴は、自分の痛みの筈なのに、まるで自分じゃない誰かの痛みの様に感じた。
感情という感情のない藍色の瞳を細めて、よろよろ、と天井に力無く手を伸ばす。

まるで、溺れる子供が助けを求める様に…。

「    」

吐き出そうとした声は結局音にはならず、喉と唇が小さく動いただけだった。

「はぁ…っ…はぁ…―」

徐々に痛みが薄れると同時に、意識も遠のいていく。

『―此処、この島で1番、景色が綺麗に見えるんだよ。私の1番のお気に入りに場所なんだ』

意識が途切れる寸前、視界の端を掠めた絵の1枚に、記憶を再生する様に頭の中で声がした。

―あぁ…あれは…。


今夜のような、星が綺麗で、波の穏やかな夜だった―。
少し癖がある、だけど柔らかくて触り心地の良い藍色の髪を、夜の海みたいだと言ったら、あの子は髪と同じ藍色の目を少し丸く見開いて、それからおかしそうに、嬉しそうに笑って「流石芸術家」と零したのを思い出す。
そんな大して特別なやりとりでもない、ただの何気ない会話。
あの時は、そんな他愛もない日常が失われるなんて微塵も予想してなくて、ただただ幸せに浸る様に時間を過ごしていた。

「―…ただいま、なまえ」

こつ、こつ、こつ、と小さな足音と共に部屋に足を踏み入れたヘッドは、ゆっくりと歩を進め、ベッドの前で足を止め、呟く。
なまえを見下ろす紫色の瞳は穏やかで、だけど何処か苛立たしげだった。

「…」

下ろされた視線は寝顔から、軽く握られた胸元へと滑り降りる。
服についた皺が、どれだけそこを強く握っていたのかを物語る。

「痛かったね…」

申し訳なさそうに、ごめんね、と小さく零して、背を曲げて覗き込むように屈むと、労わる様に胸元を触れるか触れないかくらい薄く撫で、同じ様に鎖骨、首元、首の付け根、顎、唇、頬、目尻、瞼、と上っていく。
指先を瞼の上で止め、しばらく眺める。

「…なまえ…」

小さな呼びかけになまえは身動ぎひとつせず、昏々と眠り続けたままだった。
ヘッドは気にする様子もなく、薄く笑みを浮かべ、散らばる様に広がる藍色の髪を軽く撫でてから、指を通す。
柔らかい髪質は相変わらず触り心地が良い。


「…漸く始まるんだ」

髪に指を通しながら、ヘッドは呟く。

「もうすぐ…取り戻せる…」


『今日は流星群が見れるんだって!あの公園に見に行こう?』

あれから大分月日が経ったというのに、脳に刻み込んだ記憶は、色褪せるどころか、より鮮明で、より残酷なものになった様に感じられる。

―こんな、空っぽじゃない、あの頃の幸せだった日々を…。

あの子を…。


全てを…―。

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