あぁ、恋人達よ
「―ほら。こうしたら邪魔にならないわ」
用事を済ませ、家に帰ると庭の方から明るい声が聞こえる。
なまえの世話人のササキ・シズの声だ。
数年前から雇っているが、元栄養士だから一番の問題でもある食事面の問題はないし、普通とは違うなまえの様子にも理解を示し、実の娘のように何かと可愛がってくれている。
今日は何かしているのだろうか、と玄関ではなくそのまま庭の方へと向かう。
「―楽しそうだね」
声をかけると2人はヘッドに目を向ける。
南の島らしい赤と黄色のハイビスカスのあしらわれたオレンジのビニールプールにホースを繋いで水を溜め、なまえはワンピースの裾を結んで足だけ浸かっている。
パシャパシャ、と動く度に水が鳴り、跳ねた雫がきらきらと太陽に反射する。
「あら、お帰りなさい、レイジさん」
「ただいま、ササキさん。ビニールプール作ったんだね」
「えぇ。もう日差しも随分温かくなったし、それに、なまえさんが作ろうって」
ね?と同意を求めれば、なまえは、ん、と短く答え、こくり、と頷く。
「もう夏だからはしゃいでいるのかな」
ヘッドは眩しそうに目を細める。
いつもはおろして背中に流している長い髪はシュシュで簡単にお団子にして纏められている。
そのせいか活発な印象を与える。
なまえは何をするでもなくビニールプールを歩き回る。
水面がゆらゆらと揺れると同時に、水底に水面の水紋が反射して白い曲線がゆらゆらと揺れる。
「楽しそうですね。なまえさん」
シズの言葉にヘッドはあぁ、と短く答え、薄く微笑む。
ふわり、と柔らかい綿で包み込まれた様な、心地よくて、だけど幸せ、とは少し違う、感情(キモチ)。
明確な言葉を当て嵌めるとしたら―安心。
こんな些細な事で垣間見える人間らしさが、彼女がまだ“生きている”事を実感させる。
ほんの一粒の砂程度だとしても、あの頃の彼女がまだ残っているのだと、希望を終えさせないでいてくれる。
ヘッドはなまえから視線を外し、空を仰ぐ。
瞳を突き刺すような眩しい太陽の光が世界を白く埋め尽くし、色が消える。
「―続きは…?」
ポツリと零された問いにヘッドは、ん?と小さく首を傾げる。
「この前言ってた、イカ刺しサムの話…」
相変わらず無表情だが、足で水を何度も蹴るのを繰り返している所を見ると、なかなか楽しんでいる様だ。
まるで続きを催促するように、プールから顔を上げたなまえはヘッドを見る。
「気に入ったんだね。あの話」
「サムは、どうなったの…?」
「その前に、話が聞きたいならプールから上がろうか」
まだ少し寒いから風邪引くよ、となまえの手を引く。
ほんの僅かに拒むように手が引き戻される。
ヘッドは目を細めて微笑むと、また今度作ってあげるから、と宥める様に言い聞かせる。
木製のテラスにポタポタ、と雫と小さな足跡が残る。
ヘッドは手摺にかけてあったタオルを取ると、なまえを窓辺に座らせ、片足を掴んで水気を拭う。
陽に照らされた木製のテラスは温かくて心地がいい。
水に浸かって冷たくなっていたなまえの足も、何時の間にか体温を取り戻していた。
「―サムの住む魚の惑星には、銀河の世界に行ける船が1隻だけあったんだ。
その船は王様の船だったんだけど、ある日、王様が御触書を出した」
「魚の惑星で暴れまわるイカ大王の青い血を持って来た者に、何でも望む物を与える、って」
ヘッドはシュシュを外して風に揺れるなまえの髪を耳にかけ直してやる。
反射的に視線を上げたなまえの藍色の瞳とアメジストの瞳が交錯する。
ただそれだけの事なのに、そんな事も嬉しくて、体中が熱を持つような気がする。
「それでサムはイカ大王と戦う決意をして、銛でイカ大王を倒す練習を始めるんだ。
サムは必死に訓練して、凄く腕のいい漁師にまでなるんだよ」
凄いよね、と零す。
「あぁ、そうだ。サムと少女は海辺の小屋に2人で住んでるんだ」
「そして、2人は秘密を持った」
「2人の持った秘密は、どんな秘密だったんだろう?」
わかる?と問うヘッドに、なまえは差して表情を動かす事もなく、遠くを眺める。
「悪い事…」
「でも、特別な事…」
「そうだな…好きな人と共有する秘密はどんなものでも幸せで、特別だ」
ヘッドはそう呟いてから、なまえの手に視線を落とす。
白くて、自分と比べると一回りも二回りも小さい手だ。
この手がもっと小さかった頃から、彼女を見て来た。
この手を引いて、同じ景色の中を歩いて、同じ時間を、沢山の思い出を、記憶を共有してきた。
浸る様に目を閉じてから、夢から覚める様にゆっくりと、少しだけ名残惜しそうに瞼を開く。
あの少女の物語に出てくるサムと、彼が恋をしたという少女を少しだけ羨ましいと思う。
彼等は秘密をわかちあった。
同じ罪を背負い、同じ運命を共有した。
だから、どんな秘密だろうと、彼等は幸せだったのだろう。
ヘッドは自嘲するように薄く笑みを浮かべる。
―俺がずっと持ってた秘密は、特別だったけど、幸せじゃなかったな…。
この“秘密”は掌の中で握り締めて、ずっとずっと、誰にも知られる事のないまま、隠しておくつもりだった。
―隠しておくつもりだったんだ。
あの日、君がこの島に来るまでは…。
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