君の名は“世界”

『だーれだ?』

『くすくす。此処に来るのはお前しかいないだろ、なまえ』

『詰まんないの。もうちょっと面白いリアクションしてよー』

いつから、だっただろう。
あの子以外眼に入らなくて、あの子以上に大切なものなんてなくて、彼女が世界の中心で、でも、その想いを口にする事は許されなくて。

そんな、ただ溺れて、もがく様な恋をするようになったのは。


「―…何だろ、いきなり病院まで来いとか」

“南十字総合病院”と書かれた建物を見上げながらナマエはぽつり、と零す。
朝、出勤する前に母にいきなり今日自分の職場でもある病院に来て、と言われたナマエは、当然ながら理由を問うたが、母は来ればわかるの一点張りで、終始意味ありげな笑みを浮かべていただけだった。
不満を持ちつつも結局は母に大人しく従ってしまう辺り、自分と父親は似ていると思う。
ナマエは入口からそのまま中庭へと向かう。
中庭は程良く芝生と木が植えられ、歩く度に足下で芝生がカサッ、と小さな音を立てる。
ふと、目の前の大木が目に入る。
多分この中庭に有る木で一番大きい木だろう。
ナマエの身長よりも遥かに高い場所に伸びる枝には青々とした葉が茂り、日差しを遮っている。

「きれいだなぁ…」

首を反って木を見上げ、思わず零す。
葉の間から差し込む日差しが、葉が風で揺れる度にキラキラと輝いている様に見えて、星みたいだと思った。

「あ、すみま…せ…」

木を見上げたままおぼつかずに歩いていたナマエは、とん、と太腿あたりに当たった軽い衝撃に、思わず視線を下ろし、ぶつかってしまった人物に謝る。

「え…?」

顔をあげて、その人物を見て、ナマエは目を丸くして、その顔を凝視する。

「―…」

重なった瞳は、色も形も、何もかもが自分と同じで、まるで鏡を見ているようだった。
どくん、どくん、と自分の心臓の音がやけに大きく聞こえた。
それが良い意味なのか、悪い意味なのか、ナマエ自身にも区別はつかなかったが、彷徨う様な思考とは裏腹に、鼓動は尚も胸を叩くように脈打つ。
喉がからからに渇いて、上手く声が出せない。

「…貴女、は…」

「…私は、なまえ」

世界から2人だけが隔離されたんじゃないのかと思ってしまうほど、視線が、意識の全てが、目の前の、自分と瓜二つの少女に向けられていた。
風に揺れるなまえの長い藍色の髪は、やはり自分と同じように、波打つ夜の海の様だった。


「初めまして―“ナマエ”」

なまえのガラス玉の瞳の中にナマエが映る。
ナマエの瞳の中にも、なまえの姿が映る。
ただそれだけの事なのに、それは何だか、そこに在るのが当たり前の様な、とても不思議な感覚を覚えた。


―まるで、僕は夜の海に溺れてしまったみたいだ。


「―どうして、私の名前…」

なまえはナマエの問いかけには答える事はなく、相変わらず静かに見つめるだけだった。

「…」

ナマエは覚悟を決めたように、小さくごくり、と喉を鳴らして唾を飲み込む。
ずっと喉につっかえていた疑問は、言葉にする事を酷く迷わせた。
確証はないのに、何故か、目の前のこの少女は、この疑問に対する明確な答えを持っている様な気がする。
聞いてしまえば、もう後には引き返せない―。

「ねぇ、貴女は…私、と…」

「あっ、ナマエー!来たのね!」

ナマエはびくり、と小さく肩を揺らして振り返る。

「母、さん…この人…」

「あら。紹介する前に会ってたの?」

困惑した様な表情を浮かべるナマエとは正反対に、母親は楽しそうな笑みを浮かべている。

「びっくりした?そっくりでしょ?ナマエに!」

「え…う、ん…」

そっくり、なんてレベルではない。
自分自身で見ても、まるで鏡を見ているように、瓜二つだ。
それどころか、背丈、声までもそっくりで、まるでもう1人の自分と喋っているような錯覚さえ起こす。
これが世に聞くドッペルゲンガーというものなのだろうか、と混乱しているのか冷静なのか、もはや判別がつかない方向に思考が向く。

「先週から入院してる子でね、初めて見た時は母さんもびっくりしちゃった」

ナマエは母から、なまえに視線を戻す。
ぴたり、と重なる視線に、彼女がずっと自分を見ていたのだと気付いた。
その瞳は敵意や戸惑いがあるわけでも、面白がっている様でもない。
なまえの瞳には、感情なんて呼べる色はほとんど無いのに、その瞳に見ていると、自分の何もかもを理解している様な、なのに、嫌悪よりも安心に似た、そんな感情が湧き上がる。

「…」

言いたい事や、聞きたい事は溢れるほどあるのに、彼女に対して、何て言葉を紡げばいいのか、わからない。
まるで、言葉を知らない子供になったみたいだと思った。

「…」


―君を探していたの。
君を憎んでいたの。
―君を、愛していたの。

だから君の名は、“世界”。


夜空の星を手に取ろうと手を伸ばすみたいに、君に手を伸ばそう―。
ほら、感じる?私の心臓の、音。

―君の、心臓の音。


「…」

ナマエは茜色に染まりつつある空をぼんやりと眺める。
体感する時間の流れは酷くゆったりとしているのに、現実の時間は相反する様に過ぎるのが速く感じる―。
それが何故だか、とても寂しく思えた。
自分で、自分自身に妙だな、と心の中で零す。
なまえとは今日初めて会って、初めて言葉を交わしたのに、まるで昔から知っていた人の様に親近感が沸いて、まるでずっと側にいたみたいに、離れがたい。
ふと、視線を下ろし、隣のなまえに目を向ける。
同じ様に芝生に腰を下ろしたなまえは目を閉じている。
動いているのは呼吸している事を示す上下する肩だけで、それ以外は睫毛さえも揺れない。
まるで眠っている様だと思った。
もしかして本当に眠っているんじゃ、と思ったところで、まるでナマエの心を読み取った様に、それまで微動だにしなかったなまえの瞼が開き、目が合う。

「不思議、なんです…会ったばかりなのに、なまえさんといると、何でか、凄く、落ち着く」

「似ているから、なのかな…?」

変ですよね、と苦笑するナマエの頭を、なまえは相変わらず感情のない表情で、だが、優しい手つきでそっと撫でる。

「泣かないで…」

「泣いて、ませんよ…?私…」

ナマエは少し困った様に眉をハの字にして苦笑を零す。
なまえの藍色の瞳が、自分の瞳と重なって、融け合って、奥の奥まで見透かされているみたいだと思った。

「"寂しい"って、泣いてる…」

「っ…―」

ナマエは小さく息を呑み、それから、少し泣きだしそうな笑みを浮かべる。
どうして、この人には、こんなにも心の奥底を見透かされてしまうんだろう…。
そんなに、縋るような表情(カオ)をしていのだろうか…―。

なまえは頭を撫でていた手をするり、と耳から頬に滑らせ、自分の顔を近づける。
額と額が、ぴたり、とくっつき、程良い体温が伝わってくる。

「―目を、閉じて」

ぴくり、と小さく身体を揺らし、戸惑いの色を宿しながらも、ナマエは言われた通り、目を閉じる。
風と、風に揺れる木々の音が、なまえの声に混じって、聞こえる。

「ナマエの"世界"は目の前にあるから…」

「1人で遠い世界に行かないで…―」

それはとても寂しい事だから。

―あの男(ヒト)が、寂しいと、顔を歪めるみたいに…。

なまえの脳裏に浮かぶ青年は、やっぱり寂しそうに微笑んでいた。

「…」

「また、会いに来ても良いですか?」

ナマエの問いに、同じ様に目を開けたなまえは薄く、口許に笑みを浮かべる。

「会いたいと思ったら、いつでも…」

ナマエは少し目を丸くしてから、小さく笑う。

「ありがとう」


―この絵本は、とある魔法使いの物語なの。

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