空白の砂時計

―海の底の世界はとても冷たくて、とても、寂しいの。
でも海の上の世界は、きっと温かいものや人や生き物で一杯で、冷たい事も、寂しい事も、きっと、そんなものはないと思うんだ。


「―…」

がちゃり、とドアが開き、入ってきた足音に、なまえは本に落としていた視線を上げる。
なまえの隣のソファに腰掛け、その様子を目だけで追っていたヘッドは薄く微笑む。
自分もなまえもお互いにそこまで本好きというわけでもないが、随分増えたな、と思う。
基本的になまえは何かを欲しがる事がない為、本を持ち込むのはヘッドかリョウスケだ。
故に、本棚にぎゅうぎゅうと詰め込まれている本のジャンルは文庫本だったり、写真集だったり、子供向けの絵本だったり様々だ。

「―“ナマエちゃん”と賭けをしたよ」

「…」

「彼女と、入院してた時に会ったんだって?びっくりしたよ」

ヘッドは“何が”、とは言わなかった。

「何を、賭けたの…?」

「今日、学校の球技大会らしいから、どのチームが勝つか」

「あの子が勝ったら、質問に答えて、絵をかいてあげる。
俺が勝ったら、強制でナマエちゃんの悩み相談をしてあげる」

なまえはそう、と淡々と言葉を返す。
ヘッドはなまえの長い髪に指を通す。

「―今頃、勝負はどうなってるだろう?」

なまえを映す細めた瞳は、かつての様に鮮やかな色を取り戻していた。
脳裏にあの少女の姿が浮かぶと同時に、過去の記憶も甦る。
それはいつ、というものではなく、まるで走馬灯のように様々なものだった。

笑っていた時も怒っていた時も。
泣いていた時も。
2人でケンカをした時も。
仲直りした時も。

彼女を見ていると、必死に押し殺してきた何かが、溢れ出そうになる。
それは悲しみにも嫉妬にも愛しさにも似ていて、殺意の様に狂おしいのに、愛情の様に優しくも感じた。
ヘッドはシャツの上から自分の左胸を軽く押さえ、目を伏せる。
息苦しさに、表情が僅かに歪む。

「…君じゃ、ないのに…―」

ずきり、ずきり、と鼓動の様に音を立てて疼く胸の痛みは、もう何年も味わってきた物だ。

―それなのに、今更こんなにも疼くのは、きっと、彼女のせいだ。

あの少女といると、時間が巻き戻った様な錯覚に陥る。
今までの全てが、出来の悪い夢だったのではないかと思ってしまう。
狂った時計の時間を直すように、針を回して時が戻ればいい。
そうすれば、全て、やり直せる。

“初め”に戻って、“始め”からやり直せば、きっと、もっともっと、お伽話の様な、幸せな結末になる筈だ。

―幸せな、結末に…―。

「そしたら、この痛みも、無意味じゃ、なくなる…」

この彷徨う様な時間も、孤独も、何もかも、意味があるものになる。

「なまえ…」

なまえの肩を抱き寄せ、その肩口に顔を埋める様に鼻先を押し付けたヘッドに、なまえは大した反応を示す事もなく、相変わらず虚ろに視線をやる。


「…助けてくれ…―」

耳を掠めた渇いた声に、1度、なまえは目を瞬く。


―例え何度始まりからやり直しても、お姫様は何度だって王子様に恋をして、王子様も、何度だってお姫様に恋をするの。

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