フォゲット・ミー・ノット

綺麗な人だと思った。
けれど、決して恋ではなかった。
間違いなく。
気にはかけられていたと思う。
だけどそれだけ。
ああ。もしかしたらあの頃から目を付けていたのかも知れない。
将来使える駒として。
そう思う度にいつも少し傷付く。
私達の関係は友人と呼ぶには傷付くなんて言葉が可愛いくらいもうずっとぼろぼろなのに。
今更だ。
あの男は嘘つきで傲慢だ。
出会った頃はよく笑う人だったけど、あの日以来演技で貼り付けた笑み以外で笑ったところなんて見た事が無い。
だけど時々、寝覚めの、意識の浅いところにあの頃の彼がちらつく。
柔らかく細められるグレーブルーは嫌いじゃなかった。
無理矢理意識を引き戻される不愉快な感覚の中にいつだって貴方はいる。
夢も現実も不愉快な存在である事には大差無いのだ。

"至急、毛利小五郎と周囲の身辺調査を。"

覚醒しきらない頭に言い聞かせるように内容を復唱してから言い付け通りメールを削除した。
スマホを放り、ぽすっと枕に顔を埋める。
ああ、幸せだ。
1度起きてから枕に埋もれた時の至福感と言ったら何ものにも代え難い。
すぅ、と息を深く吸ってから、ぷはーっと吐き出す。
この誘惑のなんと甘やかな事。
もう1度深呼吸してから枕から顔を上げる。
時計を見れば朝の4時。
アラームが鳴るのは2時間後。
この2時間を失う事がどれ程の痛手かあの社畜に分かる筈もない。
ん"ぅと苛立ち混じりに声を上げてのそりと起き上がる。

「…毛利小五郎」

TVでもよく名前を耳にする日本を代表する名探偵。
そして私の所属する会社ともそこそこ関わりがある男。
とは言え今まで気にもしてなかったのに何故急に毛利小五郎の身辺調査なのか。
理由は知らないが相変わらず人使いの荒い事だ。
大体そんな一般人の情報なんて私を使わなくても自分でさっさと集められる癖に何で頼むんだ。
嫌がらせか。
嫌がらせだな。
絶対そう。
間違いない。
今日だってあの男が目を付けてるターゲットを探れと行きたくもないパーティーに顔を出さなくてはならないのだ。
自分で行け。
ストレス指数は既に限界値ギリギリ。
過労で倒れたら裁判起こして慰謝料ふんだくってやる。
いや、あの男の事だ。
職権濫用で揉み消されるのが関の山だ。カタカタ、と強めにキーを叩きながら画面をスクロールする。

毛利小五郎。
元警視庁所属の警察官で現在は米花町で探偵事務所を営む。
妻は弁護士の妃英理で現在別居中。
高校2年生になる娘が1人と、小学1年生の居候が1人。

「…」

警視庁のサーバにハッキングし、これまで彼が扱った事件のファイルを圧縮ファイルにコピーする。
それから本人の携帯、PCの通話記録、メール履歴。
軽く目を通した限りじゃ特に怪しいものはないが、あの男にはそこから何か見えるのかも知れない。
そういえば彼が"眠りの小五郎"とあだ名され有名になったのはこの半年くらいだな、とぼんやりと思い出す。
探偵業自体は何年も前から営んでいた筈だが。
思考を遮るようにピピピピッとアラームが鳴る。
もう2時間経ったのか。
USBを抜いてラップトップをシャットダウンする。
固まった体をぐーっと伸ばす。
とりあえずシャワーを浴びよう。


どうか忘れないで。

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