それからしばらく、何の変哲もない日常が過ぎた。
ぼくは適当な時間に店を開けて、マスクを作って、その合間にいろんなところから頼まれるいろんな雑用をこなしたりして。
最近、ハーフマスクを基調にしたオーダーが増えてるのは、きっとカネキくんの眼帯姿が有名になったからだと思ってる。
寝子はいつも、昼過ぎくらいには出かけてる。帰るのは夜の早い時間だったり、朝方だったり。
活動的に見えるけど実際の彼女は職人気質というか、引きこもり体質というか、基本的に自分の部屋が大好きなタイプ。だからきっと、ここに引っ越して部屋にこもる時間ができたのはいいことだと思う。
一緒に住んでようが、住んでなかろうが、一日に一度顔を合わせるかどうか。
変に意識することも、変に意識しなさすぎることもない距離感は、たまに寝子がぼくのお店に寄って、コーヒー飲んでた頃と何も変わらない。
そしてそれは、ぼくたちのこれまでの関係がそのまま続いてることを意味してた。
でも、今日は「夕方、店に寄るから居て」って言われたんだよね。
特に外に出る用事もなかったし、もともと店に居るつもりの時間だったから、普通にわかった、って答えた。
急ぎの作業だけを早めに終わらせて、作業机に突っ伏してちょっと休憩。手を伸ばしてスマホの時間を確認すると、ちょうど15時を回ったところ。
まだこんな時間かぁ、昨日ほとんど寝れてないし早めに閉めよう、なんて思いつつ、うっかり微睡み始めてしまったところで寝子が帰ってきた。
「お疲れだったかな、ごめん。この後また出なくちゃいけなくて」
一緒に住んでるのになかなか会わないよね、お互い忙しい身だね。彼女は言い訳めいた言葉を並べて、申し訳なさそうに苦笑いする。
「いいよ、大丈夫。それで今日はどうしたの?」
「あのさ、昔、ウタに髪切ってもらったじゃない?」
そう言われれば、そんなことがあったかもしれない。4区をほぼ制圧して、手持ち無沙汰だったから仲間の髪の毛を切ったり、服を作ってみたりして遊んでた。きっとあの頃だ。
意外と、なんでもできちゃったんだよね。それが今の仕事に繋がってるわけだけど。
ぼくは少し思い出してみたけれど、寝子の髪を切った明確な記憶を手繰り寄せることはできなかった。
「う、ん。切った気もするなぁ。あの頃、いろんな人の髪の毛触ってたし、たぶん寝子も切った、よね」
それが、どうかした?と続けて尋ねたぼくは、寝子の視線が伏せられていくのに気づいた。
それはほんのひと呼吸くらいの、とても些細な違和感だった。次の瞬間にはぼくの勘違いだったって思ってしまうくらいの、本当に微かな空気の澱み。
「やっぱり忘れてるかぁ。あの時の髪型に戻そうかな、と思ったんだけどね」
「でも、あの頃の髪型ってどれも激しめだったよ?」
「まあね」
「寝子、すっかり落ち着いちゃったし」
今の雰囲気だと、似合わないんじゃないかな。という言葉を飲み込んだ。
今日の彼女はほんのり茶色にした長い髪をゆるく巻いて、形と素材の良い膝丈のスカートをひらひらさせてる。シンプルなチェスターコートの下には上品なデザインシャツのボタンをふたつ開けた首元が覗いて、小さなゴールドのペンダントトップがきらきらしてる。
知らない人なら、丸の内でお堅い会社のOLやってます、って言ってても通じそう。
「まあ、また髪切ってよ。全部任せるから、適当に」
「切るのはいいけど、なんだか急だね」
「伸ばすの、飽きちゃった」
その言葉は嘘だ、そう思ったのはただの勘。
でも、寝子が何か隠してるのかもって思ったのは、きっと昔からどこか同じような雰囲気を感じていたからだ、と思う。
あのころの彼女はなにもかもがつまらなさそうで、楽しい事ばかり探してた。それは、ぼくも同じだった。
彼女がたびたび髪を切るのは、そんなつまらない自分を変えたいって言ってるのと同じ意味じゃないか、って、あのころのぼくは思ってたんだ。
「……そっか」
「ダメ?」
「いいよ、でも条件がある」
すんなりOKされるか、断られるかの2択だと思っていた寝子は、驚いたようにこちらを見る。
「髪の毛切っちゃう前に、呑みに行こ」
「え?あ、それはいいけど」
「じゃあ決まり。空いてる夜があったら言って」
人の気持ちとか想いとか、そういうのに立ち入るほうじゃないけど、なんとなく寝子の気持ちを確かめておかなきゃ、って思った。
場所はどこでもいいよね、前に行けなかったイトリさんのところでも。蓮示くんを呼んだっていい。
ぼくが知らない間にどんどん変わってしまった寝子が、戻りたいって思ったのがぼくの知ってる姿なんだ。
寝子にしてみれば何の意図もない、軽い言葉だったとしても、なんだか嬉しいんだ。
……肝心のぼくがすっかり忘れちゃってるのが悔やまれるけど。
「なんで呑み?」
「なんとなく?最近の寝子のイメージ掴みたいし」
「アーティスト様の言うことはわかんないな……まあいいや、ちょっと待って」
なにそれ、と噴き出すぼくと一緒にケラケラ笑いながら、寝子は大きな鞄から手帳を取り出して眺める。
人生を全部、紙で残したい。そう言っていつも小さなメモ帳とペンをポケットに入れてた、妙にアナログな昔からの癖はまだ変わってないんだな。
「じゃあ、今週の土曜は?」
「土曜ね」
「外せない予定は昼イチだけだから」
「わかった、じゃあ仕事が終わった後に寄って」
了解、彼女はひとことそう言って、几帳面な字で書き込まれた手帳の日付に丸印を付け加えて閉じた。
「約束、頼んだからね」
「うん、大丈夫。まかせて」
「私、ウタのセンスだけは信じてるから」
「それは光栄」
もう行かなきゃ、っていう寝子を店の外まで見送って、姿が見えなくなるまで通りを眺めてた。
騒がしい街が、もっと騒がしくなりはじめる夕暮れの気配に、気の早い一番星が光っていたけれど、すぐに薄い雲が流れて空を覆ってしまった。
こんなところでも、星って見えるんだな。そんなことも知らずに過ごしていた自分がちょっと寂しくなって、ピンクから紫に変わりかけた雲の切れ目を待っていたけれど、一番星はそれっきり見えなかった。
遠い時間を旅して、やっと地球に届いた小さな、鋭い光。
それは、たしかに見えたんだ。