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 名字の合宿手伝いはその後、滞りなく過ぎていき、そして菅原もまた、他の部員と不器用ながらにけれども懸命にコミュニケーションをとろうとする名字に対して微笑ましくも密やかな感情を抱きはじめようとしているのであった。

「手伝ってみて、どう?」

 休憩の合間に菅原が名字へ声をかける。こめかみから滴る汗が、練習の激しさを物語っている。その玉の汗を見つめながら名字は口を開く。

「いい経験だよ。最終日は参加しないけれど、いつか試合も見てみたいなって思う」

 微笑む名字の言葉に、ふと菅原は考える。彼女の言う、その"いつか"の試合に自分はいったいどんな立ち位置で存在しているのだろう。無意識のうちに影山を見る。入ったばかりの後輩。天賦の才。圧倒的センス。……自分がスタメンになることはあるのだろうか。
 もちろん、菅原自身ベンチに居続けたいわけではない。しかし、どこか安心していることもまた事実なのだ。そんな自分を知ったら名字は情けないと笑うだろうか。後輩の影に隠れ姿を見せられない自分を可哀想と、惨めに思うのだろうか。

「……これから試合が増えるから、清水に日程聞いて来れるようなら見にきて」
「えっいいの?」
「そりゃあ、女子からの応援は嬉しいし。男なんて単純なんだって」

 なんとなく妙な感覚を覚えながら、菅原が笑うのにつられて名字も頷く。あれ、菅原くんってこんな風に笑う人だったっけ? そんな疑問を抱いて名字はかぶりを振った。いや、でも私菅原くんのこと、知らないことのほうが多いし。


△  ▼  △


 名字が菅原のことを本当に知らなかったんだな、と痛感したのは合宿が始まった二日目の夕方のことだった。

(澤村くんと旭くん……? 二人で何してるんだろ)

 身体を壁に寄せて何かから隠れるような仕草を見て名字は二人の視線を追う。その先に何があるというのだ、という疑問はすぐに解決された。烏養コーチと菅原が自販機の前で対面しているのを目に入れた名字は、つい倣うように自身も身体を潜めその会話に耳をそばだててしまったのである。

(何してるの、は私だ……)

 盗み聞きのような形に罪悪感が入り交じる。菅原の声は決して大きいとは言えないのに名字をはじめ、澤村も東峰も息を殺しているせいか、その台詞はきちんと耳に届いた。

「一つでも多く勝ちたいです」

 芯の通った柔らかさ、そしてどこか悔しさの滲むような声色。しかし堂々たるその菅原の台詞は、どこまでもチームを想い、ずっと先を見据えた発言だった。名字はこれまでに感じたことのない感覚を覚えた。いったい今、彼はどんな顔をしているのだろうか。身を隠したここからでは見られないその人の表情をたまらなく見つめてみたいと思ったのだ。
 菅原がその想いを伝えるまでに、いったいどれほどの苦悩があっただろうか。とにかく名字は胸が痛かった。その懐の深さにも、器の大きさにも、優しさにも。そしてそんな彼の深淵に、ほんの少しでも触れたいと思い、触れられない自分がどこか苦しかった。

(そうか、私は菅原くんのこと、知りたいと思っているんだ……)

 全部を知りたい。それが傲慢にも似たものだとしても、その関心の出所を彼女は知っている。それが一般的になんと呼ばれているかも。喜びも苦しみも備えて、その身にまとわりつくように存在するそのものの名を、名字久しく感じていなかった。だが始まりとは、落ちる瞬間とはとても些細で突然である。

「お願いします」

 烏養に頭を下げた菅原の姿を名字が見ることはなかった。しかし声だけは凛として最後はまでその耳に届く。
 チームのために自分は何が出来るか、何をすべきかを客観的に考える菅原がただただ勇敢でかっこよかった。そしてその胸のうちに宿る灯火がその身体を温めているのだと思うと、烏養コーチの言うように、私もまた菅原くんに『ビビっている』のかもしれないと名字は思う。
 スポーツとは、残酷だ。誰も彼も平等に努力し、愛し、時間を費やすのにそこには勝敗がある。選ばれる者がいる。人の心を揺さぶって捕らえて離さなくて、虜にする。
 恋に似ている、と彼女は思った。それだけで泣きたくなるくらい胸が苦しかった。

(17.01.22)

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