12



 それを確信してしまうと、今までと同じではいられなかった。彼だけが他とは違う。例えば人混みでもすぐに見つけられること。うるさい中でもその声だけは届くこと。そういう恋に落ちた人間の力みたいなものを名字は感じていた。人とは、恋愛とは存外単純なものである。認めてしまえば変わる世界がこんなにも簡単にそばにいるのだ。

「名前……?」
「えっなに? ごめん潔子ちゃん、聞いてなかった……」
「ううん、まだ何も言ってない。ぼうっとしてるけど大丈夫? って言おうと思って」

 朝ごはんをトレーに乗せた清水が、ぼんやりと窓の外を見つめる名字の隣に腰を下ろした。明日の音駒との練習試合に手伝いとして参加しない名字にとって今日が合宿最終日だ。そんな時に体調を崩したとあれば正直、申し訳ない気持ちになる。

「大丈夫大丈夫。ごめん、ぼんやりしてた」

 心配の色を滲ませる清水の瞳を見て、食欲もちゃんとあるというところを示したくて豆腐とワカメの入った冷めた味噌汁を飲む。

「名字さん具合悪いの?」

 そこへやってきたのが菅原だった。清水や名字よりも多く盛られた同じメニューの器が乗ったトレー。菅原は音を立てないようにテーブルに置くと、いつかと同じように名字の目の前に腰を下ろした。柔らかい雰囲気に、名字の心臓は簡単に掴まれる。そして昨夜の出来事を彷彿しては、また別の感覚を覚えるのだ。
 不思議なことに名字は菅原のことを好きだと自覚しても、どうなりたいとまでは考えられなかった。例えば恋人同士になりたいだとか。そういう当たり前の欲求が襲ってこなかったのだ。好きでいられることだけで満足できた。
 
「平気。ちょっと考え事してただけなんだ」

 柔らかく細い菅原の髪に太陽の光が届く。色素の薄い髪は、その光でよりいっそう薄まり眩しくさえ感じた。好きでいられるだけで良いと思う反面、菅原と清水が親しく話しているのを見ると羨ましいとも思う。そんな複雑な思いを抱くのが名字は心苦しかった。だって私は菅原くんの連絡先さえ知らない。

(潔子ちゃんになりたいとか思ってしまった……)

 多分もう、この合宿が終われば菅原とこうも多く話す機会もないだろう。時折廊下ですれ違えば会釈するか、最近どう、なんて尋ねるだけだ。優しく笑う菅原の、心に宿る想いを勝手に覗いたことに罪悪感を感じていないわけではない。
 名字の、自分をじっと見つめる瞳に菅原は気がついていた。何かを訴えかけるような瞳に菅原は思考を巡らせるが彼女の考えていることは分からない。


△  ▼  △


「待って、名字さん。送らなくて大丈夫?」

 その日、最後の行程を終え、名字の手伝いはなくなった。彼女の合宿が終わったのである。家の近い清水とは反対方向の名字の家はここから歩いて数十分の距離にある。清水が先に帰宅し、お世話になりましたと頭を下げる名字を部員が見送った後、追いかけるように小走りでやってきた菅原が、彼女の名前を呼んで立ち止まらせる。
 まだ肌寒い5月の夜に、菅原の声が夜の空気に乗って名字に届く。校門まで続く街灯の光。乱れた菅原の前髪が、名字にとってはなんだか可笑しかった。

「いいよ、大丈夫」

 自分のことを考えてくれて、小走りでも走ってくれて、送るという提案をしてくれたことだけで満足だった。数十分とは言え通い馴れた道だ。大通りを通っていくし、菅原に送ってもらわなくても大丈夫。そういう意味を込めて名字は頭を横に降った。これから夜の練習をしたり、お風呂に入ったり、明日の準備をしたり。きっといろいろ忙しいだろう。自分のために時間を割いてもらうわけにはいかないと名字は思っていた。
 笑いながら断りの言葉を言う名字に、菅原はこれ以上食い下がるべきか迷っていた。女の子に一人で夜道を歩かせることもそうだし、合宿を手伝ってくれたお礼を菅原なりにしたかったのだ。送り届けることがお礼になるかどうか微妙であるとは彼自身も思ってはいたが。

「夜道、危なくない?」
「んー、多分大丈夫。いつも通ってる道だし」
「多分なんだ」
「うん多分。だからちょっと早く歩く」

 予想できない返答に菅原は笑った。二人きりの時のほうが素を出してくれる気がする、と思う。まあこれへ思い過ごしかもしれないが。そう考えるけれど、菅原は嬉しかった。ちょっと特別な気がしたのだ。その特別が何故か嬉しかったのだ。

(17.01.25)

priv - back - next