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 それでも、名字が見つけた先にいる菅原はいつも笑顔だった。あの日、数週間前のあの夜に交わした会話が嘘みたいだと思う。合宿が終わってしまってからはこれと言って接点もなく、たまに廊下で会えば少し会話をするくらい。3歩くらいは進んでいたのかもしれないと思っていたのに現実はまだ1歩も進んでいなかったのかもしれないと名字は肩を落とす。

「おかーさん。私ちょっと走ってくるね」
 
 それは6月手前の朝のことである。学校があるわけでもないのに、気紛れからいつもよりも早く目覚ましをかけてみた。少し前までは起きる時間は寒くて布団から出られないと思っていたのに今ではもう何のためらいもなく身仕度を整えることが出来る。洗面台の前で名字は少し腫れぼったい瞼を指で押しながら浮腫んでいるなあ、と誰に聞こえるわけでもなく呟いた。その時、ふと思い付いたのだ。運動をしよう、と。
 パッと浮かんできたのはバレーのボールとそれを上げる菅原の姿だったけれど、名字は頭を振った。いや、一人でバレー出来ないし。そもそも私、バレーそんな出来ないし。なら走ろう。と思い立った名字の決意は固かった。邪魔にならないようにとそばにあったヘアゴムで髪をくくり、洗濯したばかりのジャージを物干しからとって着替える。そうして家を出ることには眠たそうだった眼も覚醒してその瞳はやる気に満ちるようになっていたのである。

(運動して、頭を真っ白にしよう。気持ちの良い汗をかこう)

 前日の夜に見たテレビの影響もあるかもしれない。名字の好きな女優が毎朝何かしらの運動をしていると言っていたのだ。

(どこまで走れるかはわからないけど……)

 何せ普段はこんなことをしないのだから、まずは無事に家まで戻ってくることを目標にしようと決意を固め名字は走り出した。そんな普段はやらないことをやってみたからなのか。早起きは三文の徳、と言いたくなるような出来事が名字にやってきたのである。
 ひとつに縛った髪の毛が後ろで揺られるのを感じながら公園の外周を息を上げて走る。土曜日だからか、早朝とはいえ自分以外の数人が同じように走っているのを見ると妙な連帯感、仲間意識が芽生えはじめていた名字の真横を一人の少年が過ぎていった。あれ、待って。なんだか今の見覚えがある気がすると思い前を走るその人を観察する。

(菅原くん……?)

 遠ざかるその人の背中を見つめその疑問はすぐに確信へと変わる。いや、見間違うはずはない。あれは絶対に菅原くんだ。そう結論付けた名字がジョギングからダッシュへと切り替え、菅原へ追い付くようにそのスピードを上げた。とは言え日頃の運動不足とはこういう時に姿を見せるもので。

「す! がわらく…ん!」

 軽快に爽やかに走る菅原に追い付く頃には、息切れで少なくとも好きな人の前では見せたくないと思う姿へ変身してしまっていたのである。

「えっ、名字さん!? 何してんの、っていうか大丈夫?」
「ご、ごめ……。普段ダッシュしないから……」

 乱れる呼吸をしながらも、額に張り付いた前髪を直す。疲れの見えない菅原を横目に見ながら、他におかしいところはないよね……? と佇まいを正した。

「呼吸、整った?」
「うん。落ち着いた。ごめんね、いきなり」

 謝罪の言葉が勢いに乗って出てきた。名字自身でも何に謝ったのか分からないまま、それて呼び止めてしまったことは悪かったかな、とその言葉を訂正することはなかった。どうして名字さんがここに? と菅原の瞳が言っていた。名字は菅原を呼び止めるまでの経緯を手短に話したけれど、こんないかにも運動頑張りますと言うような格好なのに少しダッシュしただけで早々にこんな風に息を切らしてしまったことが恥ずかしかった。そういう点においてはとても居心地が悪い。

「名字さんが走ってるとは思わなかったからすごい驚いた」
「気紛れにやってみようと思っただけで、続くのか分からないんだけどね」
「来たばっかり?」
「2周はした! すごーいゆっくりだったけど」

 その言葉に笑ってくれるところが好きだなあ、と菅原の笑った顔を見ながら名字は思った。「ごめん、けど、おつかれさん。名字さんが走るの以外だったからなんか良いなって思っちゃって」と菅原は言う。なんか良いの良いってなんだろう。と思ったけれど口には出せなかった。

「良かったらちょっと公園のベンチで休憩しない? 久しぶりに名字さんとも話したいし」

 やっぱり早起きって三文の徳なんだと思う。そう考えながら菅原の隣を歩いていた名字の心臓は、疲れとは違う鼓動で動いていた。

(17.02.25)

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