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 触れてしまいたい。はにかむ名字を見ながら菅原が思ったことはそれだった。わざわざ激励をするために教室まで訊ねてきた名字の行動は菅原の心を刺激した。

(今触れたら多分、凄くびっくりするんだろうな。照れたりもするのかな)

 困らせたいわけではないけれど、自分の行動で翻弄させられるのならそれはそれで悪くないと思える。意地悪なことして嫌われるのだけは勘弁だけど。
 それじゃあ戻るね、と踵を返そうとした名字の腕を、菅原はとっさに掴んだ。え? 驚いた顔で見上げられる。今の無意識だ。菅原の口から言葉は出ない。

「あー、えっと?  菅原くん……?」
「えっいや、その……ごめん」

 柔らかい腕を離すとそれはそっと下へ向かう。触れて驚いたのは自分のほうだった、と菅原は熱を確かめるようにぎゅっと拳を握った。ごめん、ともう1度繰り返した菅原は、それでも何事もなかったかのような顔でいつもの調子を取り戻すように言う。

「そこの床、さっき水零れてて滑りやすいから気を付けて」
「あ、う、うん!」

 言われた通り気を付けながら場を去る名字の後ろ姿を見ながら菅原は深いため息を吐いた。もっと他に良い言い訳は浮かばなかったのか。嘘の1つもまともにつけないらしい。そんなこと、名字は知るよしもないけれど。

「名字さんなんて?」
「いや、特に」
「……大丈夫か?」
「え?」
「顔」
「顔?」
「赤い」

 愉快に笑う澤村に菅原は口をつぐむだけだった。何を言っても気持ちを晒してしまうことになりそうで。それでもばつの悪さに、隠すように頬杖をつくのであった。


△  ▼  △


(……び、びび、びっくりしたぁ!)

 握られた腕はまだ熱を持っている。多分、向こうは何も思っていないだろうけどいきなりこういうことをされると心臓が止まってしまいそうになる。鼓動が早いことに自分でも気がついて、深呼吸を繰り返した。

(いきなりとか、ずるい……)

 ああ、もう! と心の内で叫びながら帰った教室で名字を出迎えるのは清水だ。その顔を見て安堵した名字は妙な疲れと共に彼女の前の席の椅子に腰を下ろした。

「おかえり」
「ただいま、潔子ちゃん」
「菅原いた?」
「……いたよ。いた、けど」
「けど?」
「……なんでもない」

 態度がおかしいことに気付いたけれど清水は何も言わない。それでも心ここにあらずの名字に何かを悟ってそっと微笑んだ。

「……私ね」
「うん?」
「私、今とってもね、菅原くんのこと好きだと思うんだ。それで多分きっとこれからももっと好きになると思うんだ」

 内緒話をするための小さな声で、視線を合わせることなく名字は言う。清水は少し驚いて名字の言葉に耳を傾けた。教室の喧騒にまみれて溶けるように名字は菅原を想う。熱を感じながら零れるのは想い。

「菅原くんは春高まで頑張るって言うけど、私は何もできないでしょ? だからね、せめて応援することを頑張ろうと思ったんだ」
「そっか」
「それで、いつか言えたらいいな」
「今は言わないんだ?」
「うん。今言うべきじゃないんだろうなってのはなんとなく思ってて。私も一応受験生だしね!」
「確かに」

 熱中出来るものがあることを羨ましいと思う。それをやり続けられる選択肢があることもまた羨ましいと思う。だから私もちょっとだけ背伸びして何かを頑張って、少しでも誇った顔でいられるようになりたい。私には趣味らしい趣味はないけれど。今は勉強を頑張るしかないけれど。しゃんと伸びた背筋で名前を呼んで応援するために、私はこれからを頑張るよ。菅原くんがこれからを頑張るように。そう名字は誓う。


△  ▼  △


 部活終わりの帰り道で澤村がおもむろに口を開いた。

「スガさ」
「ん?」
「名字さんに言わんの?」
「何を?」
「好きですって」
「えっなにスガって名字さんのこと好きなの!?」
「旭、気が付かなかったのか?」
「……鈍くてスマン」

 ぎょっとする東峰と、まじかよと驚く澤村を横に菅原は眉を寄せた。そういうのは考えたことがなかったな、と。こういう話を3人でするのは珍しいな、とぼんやり思いながら菅原は名字のことを思い出した。

「で、どーなの?」
「いや、まあ、なんてゆーかさ……まあ、今ではないべ」
「まあ、な」
「部活ももっと忙しくなるだろうしなー」

 春高に行くと決めたわけだし。言い訳のようにそんな言葉を自分の中に付け加えた。今ではないと思うけど、誰かにとられるのは嫌だなあ、なんてわがままなことだと知りながら。

(17.03.25)

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