03



「先生、電話があって出ていったけれど、すぐに戻ってくるみたいですよ」

 少女はそう言い、しばらく菅原を見つめた後「あっ」と少し嬉しそうな顔で声をあげた。何と返事をしたら良いのか迷っていた菅原の身体が一瞬、緊張する。

「この前はありがとうございました。……あ、覚えてます? 潔子ちゃんにファイル渡したくて部室に行った……」
「お、覚えてる覚えてる。ちゃんと清水に渡しといたから」
「うん。ちゃんと夜に連絡きました。実はあのあと用事があったから申し出てくれたの本当に助かったんだ」

 この間と比べると口数が多いのは緊張していないためだろうか。なんだか印象も違って見える。清水が言っていた、私よりたくさん笑うし、よく喋るの言葉の意味を菅原はなんとなくだがわかりはじめた。

「怪我? それとも具合悪い? 私もう教室行くから先生呼んでこようか?」
「調理実習で切っちゃってさ。部室に行ったら救急セットあるし、大丈夫」
「部室棟まで行くの遠くない?」
「ちょっと遠いけど、わざわざ呼びに行ってもらうのも名字さんに悪いし」

 言って、菅原ははっとした。ナチュラルに彼女の名前を呼んでしまったけれど、どうしよう。ほぼ面識もない男に名前を呼ばれて気持ち悪いと思ってはいないだろうか。いや、面識はないに等しいとはいえ、少なくとも同学年であることに変わりはない。2年同じ学舎にいたのだから名前くらいは大丈夫なはずだ。
 菅原は名字の顔を伺った。

「私の名前、知っててくれたんだ?」

 喜びが垣間見える顔に菅原はほっとして、どこか胸が痛んだ。知ったのはつい先日だ。それまでは存在すら認識していなかった。とは言え、そんなことを正直に告白することは出来ない。

「あー、その、清水が教えてくれて」
「あ、そっか、そうだよね。菅原くんは私のこと知らないだろうなって思ってたから」

 名字の言葉に菅原は驚きの余り声を失った。菅原くん。さも当たり前かのように彼女の口から出てきた自分の名前に驚く。知っていたのか。それとも自分と同じように清水からつい最近聞いたのか。
 いやどちらでも良い。なぜなら、名字が口にした自分の名前はなんだかいつもとは違う色を帯びて耳に届いた気がしたのだ。それがどことなく、嬉しい。

「名字さんこそ、俺の名前知ってたんだ」
「うん、知ってるよ。潔子ちゃんから部活の話聞いたりするしね。あ、別に変なことは話してないよ! 最近どうとか、試合がどうとか」
「や、うん。大丈夫。そう言う意味じゃなかったし。この前、そんな雰囲気じゃなかったから驚いただけ」
「あー……この前はね。私、部活入ってないから部室棟行くことなくて緊張してたんだよね。しかも男バレで、着替え中とかだったらどうしようかなあとか……菅原くんで助かったけど」

 そっか。菅原は答える。今日の様子だけを見るなら、清水の言った言葉が分かる。確かに、清水よりたくさん喋りそうだし、笑いそうだ。名字の隣にぼんやりと清水の姿を思い出す菅原は納得した。なるほど、二人は性格のバランスが良さそうだ、と。

「あ、そう言えば怪我だったよね。先生戻ってこないし、バンドエイドで良かったらあげるね。ちょっと待って」

 菅原自身も忘れていた。名字は先程、自分が横になっていたベッドのサイドテーブルに置いてあるポーチを持ってくる。「はい、どうぞ」その声と共にバンドエイドが差し出される。

「水で洗って拭いたら消毒しないでそのまま張ってね。防水だから何日間かそのままで」

 彼女の言う通りに水道で指を洗い、水分を吹いたあと、受け取ったそれで怪我を覆う。名字の方をみると満足そうな顔をしていたから、菅原はつい笑ってしまいそうになった。これだけのことで達成感に満ちた顔をしてくれるのだから、面白い。

「これ、ありがとな」
「どういたしまして。この前のお礼ってことで」
「俺も大したことしてないけどな」
「私も大したことじゃないからお互い様だね」
 
 怪我の巧妙だろうか。ついうっかり滑って出来た傷がこの時間を与えてくれた。少し深めに切った切り傷はじんわりと痛い。ボールをトスしたらもっと痛いだろうか。人生がプラスマイナスゼロで出来ているなら、きっと痛いのだと思う。染み入る痛さはきっと、彼女からもらった優しさでゼロになりそうだ。

「指、早く治るといいね」

 その声を心地よいものとして、菅原は耳を傾け頷くだけだった。

(16.07.10)

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