05



 影山飛雄という人間を意識しないわけにはいかなかった。同じセッターとして彼を一目見たときから、そのたぐいまれなる才能は菅原の中の何かを揺らした。自分の持つそれと、彼のもつそれの距離は菅原にとって途方もなく遠い。だから影山飛雄が烏野高校へ入学して菅原が覚えたのは微かな安心感だった。そしてほんの少しの劣等感と悔しさ。それはまだ、言葉になることはないけれど。

 宮城の春はまだ寒さが残る。明け方、シンと静まり返る住宅街を菅原は歩いていた。首もとにあるマフラーが心ばかり、温かさを与えてくれる。大きなあくびをもらすと、白い息が空に登った。まだ眠気も残る。
 けれども、こんな時間に外を歩くのにはそれなりの理由があるのだ。日向と、影山のセッターとしての入部をかけた試合に向けての早朝練習。まったく、先輩というのは大変な生き物である。まだぼんやりとする頭を肌寒さが刺激するのを感じながら、菅原は空を仰いでいた。

「あ、菅原くん?」

 柔らかい声が菅原の耳に届く。何かが覚醒するように、菅原ははっとして前を向いた。

「……え、名字さん?」
「凄い偶然だね! おはよ」

 寒さのせいで頬を赤くした名字は笑顔で答える。

「お、はよ。えっと、散歩?」

 名字の手にあるリードを見ながら菅原は問う。丸い目をした小型犬が菅原を見つめていた。

「そうそう。今日は私がこの子の散歩当番なんだ」
「名字さん、早起きなんだ」
「全然! 普段は寝坊助だけど昨日宿題するの忘れてて。そのツケが今日に回ってきちゃったんだよね。菅原くんこそ。こんな時間から学校行くなんて早起きだね? 朝練ってやつ?」
「朝練ってか早朝練かな。新入部員のことでいろいろあってさ」
「あ、潔子ちゃんから聞いたよ。4人入るんだよね?」
「そうそう。それがまたちょっとひと悶着あって」
「そっかー大変なんだね」

 2人分の息が白く染まる。名字がマフラーを厳重そうに首に巻いている様子が菅原にはなんだか可愛く思えた。寒がりなのかな、とか。耳が少し赤くなっているな、だとか。そんなことを無意識に考える。

「……うん。けど、凄いやつが入ってきてくれたからさ」
「凄い、やつ?」
「特にセッターのやつはさ、中学ん時から凄いとは思ってたんだけどうちに来るとは思ってなくて正直驚いたけど、大地も……あ、澤村って知ってる?」
「話したことはないけど分かるよ。部長の人だよね?」
「そうそう。大地もさ、烏野は強さを取り戻すって。俺もアイツら見てたらなんつーか、春高もただの目標とかじゃなくて本当に行けるんじゃないかなって言うか。ようやく昔の強かった頃に戻れるんじゃないかな、とか思っちゃうんだよね。いや、けどまあ問題は山積みだしまだまだ未知数だから――」
「ふふっ」

 珍しく勢いのある菅原の様子に名字は思わず笑い声がもれた。男子高校生っぽいと言うか、なんというか。なんか思ってたより可愛い人なのかも。そんな風に彼女は思う。名字が「ごめん」と言ったのを聞いて不意に恥ずかしくなった菅原は冷静を取り戻す。

「あっご、ごめん。話しすぎたかな」
「ううん。菅原くんのそう言うところ初めてみたからちょっと新鮮だった。友達の前だとそういう感じなのかなあって思って」

 なんとなく、菅原の心はむず痒い。

「……まあ、名字さん前ではちょっと、かっこつけたりもするかも」
「そうなの? ははっ。普通で良いのに。菅原くん、面白い人だって潔子ちゃん言ってたよ」
「清水、俺の事そんな風に言ってんの?」
「いい人とも言ってたよ。あと、優しいとか、周りを良く見れる人だって」
「それはそれでなんか照れるっつーか……」
「ふふ。それじゃあ部活、頑張ってね」
「あー、うん。サンキュ」

 この歯痒さは上手く言葉に出来ないな、と思う。恋と呼ぶにはまだ遠いだろう。多分、彼女に想う人がいるのなら今はまだ素直に身を引ける。だけど、その声が届くと顔を上げるし、その姿が目には入るとつい追ってしまう。煮え切らない感情が、どうしようもなく歯痒い。

「名字さんも、宿題頑張って」
「うん、ありがとう」

 じゃあまた、学校で。
 どちらからともなく手を降りあって2人の距離はひらいてゆく。先程よりも明るくなった空は、やはりまだ肌寒い。菅原は振り返った。小さくなった彼女の背中を見つめる。口元からこぼれる白い息は静かにそっと、空に登る。きっと彼女は気付かない。こうやって自分がその背中を見送っていることを。
 小さくなったその背中をしばらく見つめ、菅原は駆け出す。遅れた時間を取り戻すように。走りは軽快だ。先程よりも、寒さが和らいだ気がするのは多分、本当に自分の気のせいなのだろう。

「スガさん! ちーっす!」
「おー田中おはよ」
「……なんか良いことありました?」
「は? なんだよいきなり」
「いや今日のスガさん、いつもよりなんつーか、こう……嬉しそう? なんで、なんかあったのかなーと」
「……内緒」
「なんすかそれ! めっちゃ気になります!」
「さ、練習すんぞー」
「スガさん!」

 この感情もまた、言葉になることはないけれど。

(16.09.18)

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