07



「名字さん?」

 耳馴染みの良い声が届く。生徒たちの声が飛び交うなか、その声だけは他の音とは別の何か特別な音を持っているような錯覚に陥りながら、呼ばれた名前に名字は声のする方を向いた。昼食を買おうと集まる売店の人だかりを抜けて、きょろきょろと顔を動かし辺りを見渡すともう一度その声で名前を呼ばれる。

「名字さん、こっちこっち」
「あっ菅原くん」

 声の主を見つけ名字の表情はほころび、手招く菅原に寄せられるように近付いていった。

「昼、売店?」
「そうなんだよね。お母さんが寝坊しちゃったから久しぶりに売店。ぎゅうぎゅうで押し潰されそうだったけど何とか買えた」
「ははっ。それはおつかれさん」
「菅原くんは?」
「俺は飲み物買いに」

 そう言って菅原は得意気な顔で先程買った飲料を掲げる。あ、それ私も好きなやつ。そう言おうと思ったけれど、なんだか無性に恥ずかしい気持ちになってしまった名字がその言葉を伝えることはない。
 先日、清水と話した一件がまだ頭に残っているのだ。菅原を見ると余計に強く思い出される。あーあ、この間潔子ちゃんと色々話したからちょっと意識しちゃうな。少なからず意識していることを隠して話す名字のことを菅原は気が付かない。彼もまた、己の感情で手一杯なのである。

「そういえば今日は清水は一緒じゃないの?」
「委員会の集まりあってそれに行ってるんだ」
「そうなんだ」
「菅原くんはもう教室戻るの?」
「うん、そのつもり」
「あ、なら途中まで一緒に行こうよ。菅原くんと色々話とかしたいし」

 他意はない。名字は思い付いたことを思い付いたまま口にしただけだ。それでも、まさかそんなことを言われるとは思っていなかった菅原は名字の発言に一瞬、驚きを見せた。これは思っているよりも親密度が増してきているのではないだろうか。と言うか、多少の興味は持ってくれているということに菅原は驚いていた。そういうのは自分だけだと思っていたから。

「……どうせならこのまま一瞬に昼メシ食べる?」
「え?」
「えっ。あ、いや。ごめん。言ってみただけ。クラスの女子と食べる方がいいに決まってんのに」

 だからとか、ついとか、そんな理由を後になって加えたくなる。何となく口から出てきた言葉に菅原自身が焦った。舞い上がったのだ。自分の良いように捉えているとは言え、単純に嬉しかった。胸に混み上がる何かを感じて、その歯痒さに何とも言えない気分になるけれど嫌ではない。焦りと後悔と期待と希望と。複雑で単純な思いに菅原は悩み苦しむ。
 そして一方の名字もまた、突然の誘いに驚きを隠せないでいた。まさか、菅原の口からそんな発案があるとは思わなかったのだ。しかしそれもアリかもしれないと思ったのも事実である。だがここは学校だ。もし菅原と昼ごはんを食べてそれを誰かに見られて根も葉もない噂が立ってしまったら……と考えると素直に頷けない。なんと言っても女子の噂は光の速度で広まるのだから。本当は一緒に食べたい。もっと親しくなってみたい。そんな欲望が湧き出るけれど、応えるだけの勇気を名字は持ち合わせてなどいなかった。
 そもそも、ふたりきりでお昼を食べること自体認識違いなのではないだろうか。みんなで食べようっていう誘いでそこには知らない人がいるかもしれない。考え始めると結論のでない問題に名字は頭を悩ませて、そして結局菅原に苦笑いをすることとなった。

「えっと、魅力的な誘いだけど、一緒にご飯食べるの緊張しちゃいそうだから今回は止めておくね。今度、潔子ちゃんも一緒のときにみんなで食べたいな」

半分の本音と半分の建前をあつらえて答える。せっかく誘ってくれたのに断っちゃって嫌われたりしないかな。もう誘ってはくれなくなるかな。そう思う名字と、無理矢理誘ってみたいにならないかな。距離感が近すぎて引かれたりしていないかな。そんなことを思う菅原は、互いの気持ちが似通った色味で構成されている事に気が付くことはまだない。
 それでも悩ましげな表情で顔を見合わせるふたりはまだ、姿を見せ始めた恋の断片に不馴れなままなのである。

(16.11.27)

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