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 勝っても負けてもこれが、中学最後の大会だった。私は選手でもマネージャーでもないのに、前日からバクバクと緊張していたし、遠足を楽しみにしてる子供か、と自分でも言いたくなるくらいに夜は眠れなかった。眠れなかったくせに、朝はぱっちりと目が覚めて私は大会会場へと向かった。
 刈ったばかりの、夏草の青い匂いが会場の入口で香る。あまり好きな匂いではないけれど、夏を実感させてくれるのは嫌いじゃなかった。
 会場に入るとすぐに孝ちゃんが出る試合を確認した。トーナメント。負ければ、終わり。良く見える一番良い席を陣取ってやろうと一人ほくそ笑みながら私はギャラリーに向かった。計画通り、私は見事孝ちゃんの活躍がバッチリ見渡せる場所を陣取った。


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 結果から言うなら、孝ちゃんは優勝を逃した。ボールが地面に着いて、もうどうしようもなくて、ピーっと耳に響くホイッスルの音が無情だな、と思う。
 孝ちゃんが敗退したことを理解した瞬間、どんな顔で孝ちゃんと会えばいいのか分からなかった。一旦トイレに行こう。そう思ってトイレに入って、ロビーの椅子に座る。ジャージ姿の部員たち。知らない人。誰がまだ残っているのか、もう負けたのか。その光景を見つめていると、視界がぼんやりと歪んできた。
 涙だ。孝ちゃんはもう、この人たちと戦うことはない。私はもう、今の孝ちゃんを応援してあげることが出来ない。そう、負けたんだ。負けるということは、これで終わりなんだ。孝ちゃんは今悲しいのだろうか。悔しいのだろうか。それとも辛いのだろうか。
 そんなことをぐるぐると考えているものだから、私の涙は止まる気配を見せなくて、むしろ洪水が起きたのではないかと思うくらい、瞳から溢れてきた。ああ、もう、いいや。泣いてしまえ。開き直った私はロビーで咽び泣いた。

「大丈夫ですか?」

 そんなときだった。触らぬ神に祟りなし、とでも言いたげな人が側を通りすぎるなか、私に一人の男の子が声をかけてきた。知らない人。北川第一の文字がジャージに並ぶ。この人も選手か。私はうつむいていた顔をあげた。

「……大丈夫です」

 初対面の人にこんな泣きっ面、冷静な時だったら羞恥するんだろうけど、どうだってよかった。別にこの人とまた会うこともあるまい。男の子は困ったように笑って「大丈夫には見えないけど」と言った。
 大丈夫じゃないけど、初対面の人に大丈夫じゃないと言えるほど図々しくはない。その人は次の試合を気にする様子を見せ、私にハンカチを差し出した。

「ごめんね。俺、これから試合だから行かなくちゃいけないんだけど、とりあえずこれ使って?」

 涙の止まらない私に、この厚意はありがたかった。男の子から素直にハンカチを受け取って目をおさえる。それでも涙は止まらないのだから、私の悔しさはどこへぶつければ良いと言うのだろう。涙で鼻はつまって息もうまく出来ないし、鼻水も出てくる。それでも私はハンカチを差し出してくれたお礼として、彼に声をかけた。

「試合、頑張ってください」

 すると男の子は目を見開いて「……はい」と答えた。その表情を見て理解した。この人、私の泣きっぷりに引いたな、と。
 その人が去ってからすぐに孝ちゃんはやってきた。ロビーで泣いてる女がいるとでも噂が立ったんだろうか、孝ちゃんは私を見た瞬間「酷い顔だな!」と言った。

「うるさいなぁ!」
「その顔、いくらなんでもヤバイ」

 頬に涙の後を残して孝ちゃんが笑う。私より孝ちゃんのほうが泣きたいはずなのに。私なんて、ただ観てただけだ。でも孝ちゃんのその顔を見て、ほっとしていた。私のこのぶさいくな顔が孝ちゃんを少しでも笑わせられるなら。けれど私はこの時、孝ちゃんのこと全然わかっていなかったんだ。孝ちゃんが私に向かって笑ってくれることは良いことばかりじゃないって。私は、孝ちゃんの弱い部分を見せられる存在ではなかったのだ。それは、遠い昔に由来する。私はこの時、そんなことこれっぽちも考えていなかった。ただ、孝ちゃんが笑ってくれさえすればいい、って。そんなことを思ってばかりで。
 この一瞬を切り取られた写真は、私の机のコルクボードで今も永遠を生きようとしている。


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 ハンカチを貰うのは気が引けた。だけど洗って返すとなるとわざわざ連絡先を交換して、会うなり送るなりなくてはならない。それもまた、気が乗らなかった。
 私は試合が終わったのを待って、その人を探した。北川第一のジャージを探す。確か、最後にベストセッター賞を貰っていた。孝ちゃんが貰えなかったことが悔しいけれど、顔に出してはならないと律する。
 会場を見渡してその人を見つけると私は駆け寄った。

「あれ、さっきの子?」
「はい。貴方の試合は見てないですけど、ベストセッター賞、おめでとうございます。あと、ハンカチありがとうございます。いつか返します。かわりにどうぞ」

 私はその人にアメを渡した。その人は手を出して意表をつかれたような顔をした。ぽかーん。そんな言葉を後ろに張り付けたら似合うだろうな、なんて私は思う。

「え、あ、ありがとう?」
「それじゃあ失礼します」
「あ、待って!」
「はい?」
「ハンカチあげるよ。だからもしまた今度会えたら、名前教えて」

 その人は笑った。私はまた会うことはないだろうと思いながらも、はい、と返事をした。その男の子の顔なんてすぐに忘れてしまったけれど、この出会いは私の知らない未来まで続いていたのだ。だけどいつか、そう遠くはない先で、巡り会うきっかけとして。

 それは名字名前と及川徹の初めての出会いだった。

(16.02.01)