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 幼い頃の私にとって菅原孝支は騎士様だった。悲しい時は笑わせてくれて、困ったときは手を差し伸べてくれる。嬉しいときは良かったなって喜んでくれて、私が笑ったら、孝ちゃんも笑ってくれた。だけどそれは「恋」ではなかった。幼いながらに恋とはどういうものか、なんとなく分かっていたつもりだった。分かっていて、恋ではないと断定していた。言うなれば家族だろうか。近くて遠い幼馴染。それが恋だと気付いたのはずいぶんと昔のことだ。


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 我ながらわがままな子だったと思う。一人っ子だということもあってか、家族の寵愛みたいなものを一身に受けてきた気がする。欲しいものを欲しいと言い、嫌なものを嫌だと言う。とにかく、思いや考えを口に出すことを躊躇わなかった。

「もう疲れたよ。帰りたい」

 学校の帰りに近くの公園で遊ぶことが日課だった。ランドセルを放って汚くなるまで遊んだのを覚えている。その日も私と孝ちゃんは公園のブランコを並んで漕いでいた。そのころは身長も私の方が高くて姉のような気分でいたのだ。だけどそれは気分だけで、実際に私を引っ張っていったのは孝ちゃんだったし、何かある度に私の前を歩いていたのも孝ちゃんだった。

「暗くなったし帰るか」

 幼い孝ちゃんはそう言うと華麗にブランコから飛び降りた。なんだそれは! かっこいいじゃないか! まるでサーカスみたいだ! そう思った私は負けじと孝ちゃんの迷う見まねでブランコから飛び降りる。だけどまあ、運動神経が抜群でもなかった私は孝ちゃんのように華麗に着地することもできず、顔面から地面へダイブだ。

「名前! 大丈夫か?」

 焦った様子の孝ちゃんが駆け寄ってきて私に声をかける。私はむくりと地面から顔を上げて、着地の失敗と痛む身体を理解したときぶわっと溢れんばかりの涙が込み上げてきたのだ。

「い、いたっ、うっ、痛い!」
「ハデにころんでたもんな……。歩けそうか?」
「……分かんない」

 あの時、分からないと言ったのは「甘え」だった。痛いことはもちろんなのだが、こんな惨めな思いのまま歩きたくないという考えもあったのだろう。幼い私のその返答に、孝ちゃんはやはり困っていた。

「……おばさん、よぶ?」
「……怒られないかな」

 それは子供らしい発想だった。多少は怒られたのかもしれないが、私はその時の痛さよりも母に服を汚したことを怒られるのが怖かったのだ。孝ちゃんは暫し黙って私の手を握った。

「おれが一緒なのにケガさせてごめん」

 孝ちゃんのせいではない。あれは明らかに私の過失だ。と言うより無茶だ。そんなの火を見るより明らかなのに、孝ちゃんは悲しそうな顔をして謝った。それが子供ながらに不思議で、妙な感覚だった。
 それは1つのきっかけに過ぎなかったのだろう。思い返せば似たような場面はたくさんあった。ゆっくりと落ちる水滴もいつかは貯水されていくように、多分私の中の恋もゆっくりと募っていったのだ。

「……痛い」
「うん」

 孝ちゃんが困った顔をする。孝ちゃんの手は温かい。

「孝ちゃんのほうが痛そうな顔してる」
「そうか?」
「うん」

 握る手に力が籠った。孝ちゃんの優しさはたまに痛い。外傷よりもずっと痛いときがある。優しさは痛いと知ったのは孝ちゃんがいるからなのだろう。孝ちゃんはいつまでも優しいから。今も、ずっと。

「おれもっと強くなりたい」
「どうして?」
「強くないと名前のこと守れないだろ」
「そうなの?」
「だから強くなるよ」

 瞬間、孝ちゃんの瞳に吸い込まれた。幼いその瞳に宿る意思は固かった。突然の宣言に私は驚いたけれど、その瞬間はいつもと違うように感じた。孝ちゃんが急に大人びて見えたのだ。
 どういうわけかこの時、私は死ぬまで孝ちゃんと一緒にいたいと思った。私のそばにいてほしいと。それからは単純で、ずっとそばにいる=大人になったら結婚する。なんていう方程式が私の頭に生まれた。

「……ならずっとわたしと一緒にいてくれるの?」

 孝ちゃんは笑った。

「あたりまえだろ!」
「なら、約束!」
「約束な」

 絡まる小指の有効期限は永遠だと思っていた。
 しかし、そうして月日は流れて、そんな約束は互いに過去のことになって、結局は一緒にいられないことを悟った。大人になってわかったのだ。一緒にいられるって単純ではないことだと。
 今はもうずっと遠い昔。過ぎ去った過去。けれど確かに誓った約束。私の心の奥でひっそりと生きているあの日。孝ちゃんはきっと忘れているあの日。

 それは名字名前と菅原孝支の初めての約束だった。

(16.02.10)