#03



 及川徹。その人に話しかけられたのは高校2年の初夏のことだった。お昼休みに飲み物を買おうと1階の自販機に足を運んだ私は、持ってきた小銭入れの中を確認すると10円足りないことに気付いた。あらら、困った。教室に戻って友達に貸してもらおうと体の向きを変えると、後ろに並んでいた男子生徒にぶつかる。

「わっ……ご、ごめんなさい」
「こっちこそごめんね、大丈夫?」

 よろけた私の腕を大きな手が掴んだ。ぎょっとして声のほうに顔を向けると及川くんが晴れやかな笑顔をしてそこに立っていた。

「飲み物買わないの?」
「お金が足りなくて」
「いくら? 貸してあげる」
「いや、大丈夫、です」

 なんだろう、この人。優しいのか、なんなのか。初対面の人にお金を貸そうとするなんて心が広すぎて怖い。大丈夫です、ともう一度及川くんに答えると、彼が私の名前を呼んだ。どうして私の名前を知っているんだ。眉を寄せてと訝しげに問う。

「だってよくバレー部の練習観に来てるでしょ?」
「それは……」
「応援してくれてる子のことくらい知ってるよ。はい、100円」
「えっ、いや、ちょっと、あの」

 及川くんはそう言うと私の手に無理矢理100円を握らせた。返そうとするけれど、及川くんは受けとる素振りを見せない。手のひらに乗っかった真新しい100円玉を見つめる。及川くんのほうにもう一度顔を向けると彼は私に向かってにこりと微笑んだ。私よりずっと高い位置にある顔が私を見下ろす。孝ちゃんよりも高いなぁ、と他人事みたいに思った。

「買わないの?」
「……いや、でも」
「いいっていいって、気にしないでよ」
「……じゃあ、お言葉に甘えて」

 きっと及川くんにどう言ってもその心は変わらないんだろうな。それならばその言葉に甘える他ないと判断した私は手のひらの100円玉を自販機に投入した。ココアを買うつもりだったのに、ふと目に入ったイチゴオレに心が奪われてついついそちらのボタンを押してしまった。……甘い飲み物が欲しかったから、いいか。

「イチゴオレ?」
「なんとなく」
「可愛らしい飲み物で女の子らしくて俺は好きだよ」
「お腹の中に入っちゃえばイチゴオレだろうとエナジードリンクだろうと同じなんだけどね」

 及川くんは笑って「見も蓋もないこと言うねぇ」と言った。パックジュースの回りに少しずつ結露が生まれる。少しずつ暖かさを孕んだこの時期に、パックジュースの温度は気持ち良い。結露さえなければもっと最高なんだけど。

「あの、100円ありがとう。明日必ず返すから」
「いつでもいいから、気にしないでよ」

 及川くんが飲むヨーグルトを買ったのを見届けてから私はお礼を言った。さあ、教室に帰ろう。そう思って及川くんにさようならをしようとすると、名前を呼ばれて呼び止められた。

「少し、話す時間ある?」


△  ▼  △


 教室前の廊下に移動した私たちは、生徒たちの声が渡る廊下の壁に体重を預けた。高校生にもなって廊下を走る生徒はほとんど居ないけど、お昼休みなだけあって教室の声は廊下に響き渡るくらいには騒がしい。

「いきなり驚いたよね、ごめん」
「うん、驚いた」
「はは、名前ちゃんて素直なんだねえ。岩ちゃんとは大違い」
「岩ちゃん?」
「岩泉一。同じクラスだよね?」
「ああ、岩泉くんか。岩ちゃんて呼ばれてるんだね。なんか意外」
「幼馴染だから」

 単純にいいな、と思った。同性の幼馴染なんて、夢のようだ。羨ましい。そう思ったけど、及川くんには知られないように、何事もなく取り繕った。

「ずっとね、気になってたんだ」
「何を?」
「声も出さないでじっとバレー部見てる女の子がいるなぁって」
「気に障るような事をしたならごめんね」
「あ、いや、そう言うことじゃなくてね! ほら、女の子って皆、声上げて一生懸命に応援してくれるから、何でかなって。岩ちゃんが同じクラスだって教えてくれてから1回話してみたいなって思ってたんだけど違うクラスだとなかなかそんな機会もなくてさ。でも今日こうやって話できたから、もう少し話せたらなって思って誘ったんだよね」

 及川くんは弁解するように言葉を並べた。ふうん、そうだったのか。自分の今までの行動を振り返って納得する。「そっか、声をかけてくれてありがとう」と答えたけれど、及川くんは知らない。私が彼らの応援をするためにバレー部を見ていたわけではないと言うことを。
 烏野にいる孝ちゃんの力になれないかなって、偵察のつもりで青城のバレー部を見つめていたことを、及川くんは気付いていない。私なんかが分かることなんて、たかが知れているんだけど、それでも孝ちゃんの力になれたらなって、私は時間がある日にはバレー部の練習風景を眺めていたのだ。そう、及川くんの応援をしていたわけではない。

(15.10.16)