#04



 翌日、借りたお金を返すために100円玉を握り締めて及川くんの教室を訪れた。初めて訪れる教室に私は少し緊張する。近くにいた男子生徒に及川くんを呼んでもらうよう頼むと、及川くんは笑顔を見せて寄ってきた。どうしてこの人はいつもこんなにキラキラとした笑顔でいられるのだろう。

「やっほー。名前ちゃんのほうから来てくれるなんて今日は良い日な予感」
「あ、いや、昨日のお金を返しにきたの」

 握りっぱなしで温くなったお金を及川くんに渡す。「別に急がなくて良かったのに」と言う及川くんはそのお金を適当に制服のポケットに突っ込んだ。及川くんて、チャラいな。まあ、見た目も格好いいし、女の子にモテるし、だけどその事を自慢するわけでもないし、チャラくても納得、かな。私なんかにこうやって楽しそうにする辺り、やっぱり、そうなんじゃないかなって思う。不思議な人だな。

「そんなに見つめられると及川さんの顔に穴空いちゃうよ〜?」
「あっ、ご、ごめん」
「いやいや、謝らないでよ。笑って?」

 そう言われても笑えるわけないじゃん。なんて、口には出せないけど。少し屈んで私との距離を積めてくれる及川くんは、孝ちゃんと同じセッター。壁に置いてる大きな手がバレーのボールを簡単に上げるのだ。孝ちゃんのライバルになるであろうこの人は、私が孝ちゃんのことを大好きだということを知らないのだ。

「ねぇ、名前ちゃんてバレー好きでしょ」
「え……いや、まあ。好きだから見るのが普通だし」
「だよねぇ」

 ニコニコとしながら言う及川くんの真意が分からない。孝ちゃんが好きだから、バレーが好きで、だからバレーを見る。それが私の当たり前で、疑うこともない事実。

「でも名前ちゃんみたいな子ってあんまり居ないんだよね」
「……ああ、及川くん公式戦とかの時に他校の女の子にたくさん話しかけられてるもんね」
「知ってたんだ?」
「黄色い悲鳴が上がってるから嫌でも分かるよ。女の子の輪の中で頭が突出してるから顔もばっちり見えるしね」

 孝ちゃんの応援をしに行く公式戦の場を思い出す。青葉城西は強豪だから、大体の試合に出ているし目立っている。それもあって余計に目につくのだ。
 だけど、そうか。及川くん、私が練習を観に行ってたことを分かっていたのか。昨日の及川くんの言葉を思い出す。静かに気付かれないよう、邪魔にならないように見ていたつもりなんだけどな。ギャラリーの端なら気に止めることもないだろうと思っていたのに。

「名前ちゃんのことも、最初は応援するの恥ずかしいのかなーとか思ってたんだけど、声かけてくる様子もないし、結局俺のほうから声かけることになっちゃった」
「及川くんて周りをよく見ているんだね」

 だって及川くんに興味があるわけではないもの。そう言いきれる私は我ながら酷いやつだな、と思う。仮にも同じ学校の生徒なのに。ごめんね、及川くん。私だって及川くんの周りに集まる女の子と変わらないんだよ。孝ちゃんが好きだから、なんて不純な動機でこうやってバレーに関わっているんだから。及川くんが思っているような子ではない。

「名前ちゃん、俺ね」
「うん?」

 及川くんはまた少し屈んで、私との距離をつめた。ぐいっとパーソナルスペースに入り込んできた及川くんに動揺する。整った顔だ。そう思ったのは嘘ではない。一呼吸おいた及川くんは笑顔を崩さず、さらりと、次の言葉を口に出した。

「名前ちゃんのこと、好きなんだよね」

 は? なに言ってるの、この人。いきなりどうしちゃったの。及川くんの言葉に不信感が募る。だってそうでしょ。顔を知っていたとはいえ、話をしたのは昨日が初めてだったんだから。それなのに今日いきなりそんな事言われたら、大抵の人はからかっているのか罰ゲームかとか考えちゃうでしょう。私は眉を寄せて訝しげに及川くんを見た。

「え、ちょ、その顔!」
「いや、そりゃあこうなるよ。及川くん、そういうの冗談でも言わないほうがいいよ。本気にする子もいると思うし。後もし罰ゲームとかなら面白い反応出来てなくてごめん」

 そう言うと及川くんは真顔で黙った。けれどそれもほんの一瞬で、すぐにさっきのような笑った顔を取り戻したかと思うと、屈んでいた背を元に戻して、苦笑する。やはりからかっただけかと一安心。なのに、少しだけ開いた距離が、ものすごく遠いような感覚に陥る。

「なぁんだ、やっぱりダメかぁ。名前ちゃんの照れた顔見られると思ったんだけどなぁ」
「そんなの見ても面白くないでしょ……」

 呆れた私に及川くんは「ごめん、ごめん」と謝った。別にいいけど。でもやっぱりチャラいな。予鈴が鳴って教室に戻ろうとすると、昨日の如く及川くんが私を呼び止めた。どうしたの、と振り返る。

「黙ったままの名前ちゃんの応援、待ってるね」

 私はなんとなく返事がしずらくて、答えを返さなかった。だって私は応援しているわけではないから。それでもきっと私はバレー部の練習に足を運ぶのだと思う。孝ちゃんを想って。及川くんは知らない。だけどそれでいい。私の世界は孝ちゃんが居てくれれば、それでいいのだから。

 それが、私と及川くんとの初めての出会いだった。そして再び月日は流れ、半年後。高校2年の冬。私達の物語は着々とページを進めていた。それはゆっくりと積もる砂のように、音のない速度で。

(15.10.16)