#29



 毅然とした態度と意思を保つことがこんなにも難しいということを私は知らなかった。つまりそれは私が状況に流されやすいやつということである。周りの評価を気にして、良く思われていたくて。自信がないのだ。自分に対して。
 夏休みも中盤に差し掛かった、ある日のことだった。いつの日かと同じように偶然、及川くんと出会ったのだ。

「名前ちゃん?」
「及川くん! 何してるの、こんなとこで」

 こんなとこ、とは市内にある有名な公園だ。老夫婦や家族連れ、カップルなんかも多い、いわゆる、市民の憩の場と呼ばれる場所。聞いたのにも関わらず、私は及川くんが答えを言う前に、彼の姿を見て何となく察した。ロードワークと呼ばれるやつだ。

「あ、もしかして走ってたの?」
「正解。で、名前ちゃんは?」
「さっきまで友達といたんだけど、友達と解散して、何となくゆったりしたくなってカフェ入ろうかなって思ったんだけど、通りがけに木漏れ日が目に入って公園に行きたくなっちゃってここに来てみたって感じかな」
「そっか。んー、じゃあちょっとだけ俺の休憩に付き合ってくれない?」

 休憩に付き合うとは一体。そう思いながらも、及川くんの人の良い笑みに断る事も出来ず、私たちは近くのベンチに並んで腰かけた。

「なんか名前ちゃんと話すの久しぶりな感じだね」
「まあ、夏休みだし……」
「夏休みの前くらいから俺の顔見ようとしてくれなかったじゃん」

 図星をつかれて私は言葉を無くす。そう、私は意識的に及川くんを避けていた。だって今までと同じように及川くんと話すのは良くないんじゃないかなって思ってしまったから。

「……私、その……ごめん。本当のこと言うと、避けてました」

 及川くんは私を見つめて、笑った。正直すぎ、って楽しそうに。

「普通そういうの誤魔化すんじゃない?」
「だって、なんかそういう失礼な態度とりたくなくて。及川くん、私にちゃんと真摯にしてくれてるでしょ? だから、そういう人に対して誤魔化したり、曖昧にしたりするの失礼だなあって」

 今まで見ないようにしていた私が言うことに説得力はないのかもしれないけれど。

「昼休みとか楽しそうにしてるけど、たまーに、ふとした時に名前ちゃん、顔に影落としてるよね。それって、俺がいるから?」
「え?」
「俺が、名前ちゃんの恋心を邪魔してるから?」
「そ、そういうわけでは! ない、けれど……」

 及川くんは相変わらず楽しげに「ほら、顔にかいてるよ。そうですって」と言う。どうしてそんな顔を出来るのだろう。私のこと、酷いやつって思わないのだろうか。

「……よく見てるね、及川くんは」
「うん。好きな子だからつい見ちゃうんだよね」

 意識した心臓が苦しい。
 バレーのボールを自由に操り、自分の体を変幻自在に動かし、人の思考を読んで、チームメイトの信頼を得る。貪欲に勝利を求め、人望がある。何より人気がある。そんな人が変わらず自分を好きだと言うのが不思議でたまらない。秀でたなにかがあるわけでも、学年で一番の美女なんかでもない。ただ少し縁があっただけ。それだけのことなのに。

「名前ちゃんはずっと、悩んでるんだ?」
「……うん」

 及川くんだってバレーで大変なはずなのに、私なんかに構ってる暇なんてあるはずないのに。どうして私が悩みを聞いてもらう立場になったんだろう。

「俺が魔法を使えるって知ってる?」
「え、魔法? マジックってこと?」
「ううん。魔法。名前ちゃんの悩み事を吹き飛ばしてあげる魔法」

 得意気な顔で言う及川くんを見つめることしか出来なかった。にやりと笑って「知りたい?」と楽しそうに言う彼に、私の好奇心と弱虫な心が反応した。及川くんが本当に魔法使いなら、全部忘れさせてほしかった。私が孝ちゃんを好きなことも、孝ちゃんに好きな人がいることも、そして、及川くんが私を好きなことも。全部忘れてしまえばきっと、誰も不幸にならない。

「名前ちゃん」

 耳元で聞こえる及川くんの声。鼻腔に届く及川くんの薫り。大きな体に閉ざされた視界。私の体に回る腕。一瞬の出来事に驚いたけれど、私、及川くんに抱き締められている。

「えっ?」

 現状を理解するので精一杯だった。

「今、名前ちゃんは何も見えてないでしょ。それで、誰も名前ちゃんの顔を見ることは出来ない。だから今、名前ちゃんは悩み事が蔓延る世界から隔離されているのです。この腕の中では悩みなんて言う概念は存在しません」

 及川くんのとんでもない理屈と、突然の行為に私は確かにそれまで悩んでいたことを一瞬、全て忘れてしまった。
 でも、及川くんのあまりの優しさに泣きそうになった。優しい声に、優しい体温に、優しい力に。どうして私はこんなにも優しい人を好きになれないんだろう。及川くんと同じ気持ちを返してあげられないのだろう。自分が憎い。及川くんに応えられない自分が。孝ちゃんを好きでいる自分が。
 
「……及川くんは、優しい。及川くんの優しさは泣きたくなる」
「そんなの名前ちゃんだからに決まってるじゃん」
「そうなの?」
「そうだよ」

 及川くんは私との間に距離をつくった。

「俺の優しさは、下心できてるんだよ。名前ちゃんの気持ちを奪っていくための下心」

 そういうの、それこそ誤魔化したりするものなんじゃないかな。そう思って私が笑うと、及川くんは満足そうな顔を見せた。

「良かった。少しは元気でた?」
「うん。ありがと」
「だから言ったでしょ、俺は魔法使いだって」

 得意気に笑う。孝ちゃんとは全然違うタイプの人。この人を好きになってみたかった。及川くんに全力で恋をして、大きな愛を伝えたかった。ごめん、及川くん。ごめんね。同じ好きになれなくてごめん。譲れない気持ちがきっと及川くんを傷付けたこともあったと思うんだ。でも及川くんは私に嫌な顔ひとつしなかった。いつも優しかった。優しく、私のことを好きでいてくれた。

「……及川くん」
「うん?」
「ごめん、でも、私はやっぱり及川くんのこと――」
「待って」
「え?」
「夏の間はまだ、待って? まだ、もう少し俺に翻弄されてて。お願い」

 及川くんは分かってる。私の本当の気持ち。どうやってもきっと変わらない孝ちゃんへの気持ち。遠くても、どんなに届かなくても伸ばしてしまう孝ちゃんへの恋心。

「……わかった」

 孝ちゃんで溢れていた心に、ゆっくりと注がれたのは及川くんと言う名のキラキラとした光だった。それは、誇れるものがない私には眩しかった。けれどそれは私に自信をくれた。及川くんが私を好きになってくれなければきっと、私は変われなかった。孝ちゃんと向き合うことすらできなかった。ねえ、及川くん。私を好きになってくれてありがとう。それだけは、何があっても伝えたいんだ。


 夏の終わり、秋の始まり。いつしか季節は移ろぐ。人の想いを乗せて。神無月の頃、春高予選。終わりは近づく。じわりじわりと、しかし確実に。青い春の速さで、彼らの側を暖かく見守るように。

(16.03.14)