Vega



『合格しました。 瀬見英太』

 一行だけの短い連絡が私の携帯に届いたのは、それから1ヶ月が過ぎる頃だった。
 社食でお昼ご飯を食べた後、化粧室で歯を磨いていた私は慌てて口の中を濯ぎ休憩室に駆け込んだ。ロッカーの前にある長椅子に座ったところで、駆け込む必要もないのに駆け込んだ自分の行動を恥ずかしく思ってしまった。だってこれに対する返事は1つだけなんだから。
 たった5文字の『おめでとう』なのに、なぜだか消しては書いてを繰り返してしまう。

『おめでとう! お疲れさま。春からは大学生だね。残りの高校生活たくさん楽しんでね』
 
 迷った挙げ句に送ったメッセージが、当時自分が母親から貰ったものと似ていることに気が付いたのは送信ボタンを押した後だった。似たようなメッセージをたくさん貰っているんだろうから、少しくらいは違ったメッセージを添えたかったけど無理だった。なんてことを考えている最中に、瀬見くんからの返事が届く。

『合格祝いを貰えませんか?』
「えっ」

 予想だにしなかった内容に思わず声が出てしまった。近くにいる同僚のどうしたのという視線に苦笑いで返しながら、もう一度携帯の画面を見つめた。私に対して何かして欲しい事や物を求めることはしないのだろうと勝手に思い込んでいたから意外だ。まあ、嫌なわけではないし、私に出来ることならしてあげたいとも思うけれど。
 
『もちろん良いよ。瀬見くんは何が欲しいの?』 

 けれどまあ、今どきの高校生が欲しいものなんて全然わからないし、凄く高価なもの提示されたらどうしようって不安もないわけじゃあないけど瀬見くんはそういうところがところ悟ってくれそうだし。どんなリクエストが来るんだろうと内心ドキドキしながら返事を待つ。あと10分でお昼休みが終わっちゃうから早い返事を期待。なにかなぁなにかなぁと考えていると手の中の携帯が震える。

『海に行きたいです』
「えっ」

 またしても予想していなかった返事に同じ行動を繰り返す。海? この時期に? なんで海? 疑問が大量に浮かび上がる中、瀬見くんから追って連絡が入った。

『すいません。こんな寒い時期に』

 そう思っても行きたいと思う理由が瀬見くんにはあるのだろう。そう考えると断るわけにも行かなくて了承の返事をする。気持ちは目まぐるしいのに、文章はいたって冷静だ。

『大丈夫だよ。じゃあ私、運転するね。今週は週末予定が入ってるんだけど来週以降ならいつでも大丈夫だよ。瀬見くんはいつがいい?』
『俺もいつでも大丈夫です。来週の土曜日にしますか? 名前さんが運転するの想像出来ないんで楽しみです』
『大丈夫! なら来週の土曜日で。時間はまた後で連絡するね。海風冷たいから温かい服装必須だね! あ、ちゃんと安全運転するから安心してね』

 気が付くと口角が上がっていて、頭上から昼終わりのチャイムが成るまで鳴るまで時間の経過に全く気が付かなかった。慌てて休憩室を出てデスクに向かう。

「あれ、名字さんニコニコしてるけどいいことでもあったの?」
「えっニコニコしてましたか? 実は、知り合いの子が大学受験に合格したって連絡があって」
「へえ、それはおめでたいね」

 主任に言われたニコニコは自覚がなかった分、正直ちょっと恥ずかしい。だけど別に大学合格を自分のことのように喜ぶのはおかしくないはずだ。それでも、自分のそういう細やかな心の移ろいに気が付かないほど鈍くもなく、かといって甘受出来るほどお気楽でもないのだ。


★  ☆  ★


 約束の土曜日は思っていたよりも早くやってきて、待ち合わせ場所にいた彼が薄手のコートを羽織っているのを見て、ほんの少しだけ胸がざわざわするのを私はまた気が付かないふりをした。

「ごめんね、待った?」
「俺も今来たところです」
「それなら良かった。それじゃ行こうか」

 運転は休みの日くらいしかしないけど、助手席に瀬見くんがいるだけでいつもより緊張が増している。未成年の子を預かっているという責任感もあるけれど、なんというかこれは自動車学校に通っていた時、教官が隣にいる感覚にも近い。

「なんだか緊張するなぁ」
「緊張ですか?」
「うん。高校生隣に乗せたことなんてないもん」

 申し訳程度の音量で車内には音楽が流れている。沈黙になることも心配していたけれど、案外杞憂に終わりそうだ。

「肌寒いけれど晴れてて良かったよね。あっ言い忘れてた。合格おめでとうございます」
「ありがとうございます。名前さんの参考書が役に立ちました」
「本当にー? なら良かった」
「けと少し意外でした。名前さん、参考書には落書きとかしないタイプだと思ってたんで」
「えっ私何か変なこと書いてた?」
「変なことと言うか、眠たいとか兎の絵とかです。可愛いなって思いました」

 瀬見くんの口からさらりと出てきた言葉に動揺した。運転する私から瀬見くんの表情は見えない。高校生、恐るべし。

「……あと、海に行きたいって。けど、よくよく考えたら5年近く前のことだし、今さらって感じですよね。しかも運転してもらってるし」

 瀬見くんは私があげた参考書の、私すら覚えていない落書きの言葉を見て、海に行きたいと言ったのか。
 どうしても瀬見くんの顔が見たくて、赤信号なのを良いことに顔をそちらにむけた。少し心地悪そうに、ほんのりと恥ずかしさを隠して染める頬に気が付いて私の心臓が音を鳴らす。もし私が高校生で、瀬見くんと同じ学校に通えててさらに同じクラスだったなら。もし瀬見くんが社会人で同じ会社の同じフロアの同じ所属だったなら。そんな、考えてもどうしようもないことを私は一瞬考えた。もしそうだったなら、私たちの歩み寄り方は今とは違っていたのだろうか。

「今年は海に行けなかったし、きっとこういう機会がなかったら行こうとも思わなかったし、嬉しいよ」

 何も気にすることなく、素直に恋に落ちていたのだろうか。確かに私はこの時瀬見くんの想いと言葉に動揺した。彼の優しさが身体に響いた。それでもこの年になればそれの隠し方だって身に付けているわけだし。高校生に優しくされて揺さぶられている自分。普通に考えたら多分、ダメな大人なんだと思う。
 瀬見くんはどうして私の落書きを叶えようとしたんだろうか。瀬見くんはどうして私と関わりを持とうとするのだろうか。高校生の考えることなんてわからない。もしかすると、私には想像出来ないようなことを考えているのかもしれないけれど。
 私も彼も互いの思いなど知る術もなく、車はゆっくりと、目的地へ進んでいった。

(17.08.31)