Arcturus



「さむっ!」

 わかってはいたけれど、この時期の海辺は寒い。持ってきた厚手のストールを羽織ながら風で飛ばされないように胸元で押さえる。シーズンの終わった砂浜は、流れ着いた漂流物で所々溢れていた。

「大丈夫ですか?」

 瀬見くんは苦笑いしながら言う。想像していたよりもずっと穏やかな波を視界に入れながら防波堤を並んで歩く。こんな時期に、今年はじめての海。あのときの落書きだって、こんな形で叶うとは夢にも思っていなかっただろう。

「海辺は全然寒さが違うね。瀬見くんは大丈夫?」
「俺は平気です。……やっぱりこんな時期に海はちょっとさすがにでしたよね、すみません」
「や、謝らないで。これはこれでなんだか楽しいなって思うから」

 立ち止まり瀬見くんを見上げる。平気という割には耳とか頬が赤くなっている気がする。マフラーか何か持ってくれば良かった。その色をみていると、自分ばかりがストールにくるまっているのが申し訳なくなってついうっかり、無意識に手を伸ばしてしまった。

「嘘。瀬見くんも冷たいよ」

 冷たい瀬見くんの頬に、辛うじてそれよりは体温の高い私の指先が触れる。驚いたのか、私の指先が触れた瞬間瀬見くんは大きく目を見開いた。

「あ、ご、ごめん。つい」

 慌てて出した手を引っ込めようとした。けれど、その腕を冷たい瀬見くんの手に握りしめられる。
 瞳が私を映して、情緒のある瞳に私は吸い込まれそうになった。こういう雰囲気を私は今までも何度か経験している。重力みたいで、少し苦手だ。逃げたくても逃げられなくなる感じ。熱がたまっていく感じ。

「……あの、名前さん」

 沈黙を経て、少し低い声で瀬見くんが私の名前を呼ぶ。私の軽はずみな行動が彼の中の何かを揺さぶったのだろうか。人のいない海で、誰かの視線を気にすることはない。

「な、んですか」
「前に言ってた彼氏とはどうなったんですか」
「……あのあと別れて今は特に連絡はとっていないよ」
「今、誰か好きな人はいるんですか」
「……い、ない」 

 そこまで答えると瀬見くんは私の腕を離して、さっきまで醸し出していた雰囲気が嘘みたいに普通にいつも通りに笑って「すいません、ちょっと強引でしたよね」と謝罪した。頭を降って大丈夫と答える。大丈夫、ちょっと驚いたけれど、と。

「名前さんにそういう人がいたら、きっと今の俺は迷惑にしかならないんだろうなって思ったんで、確認しておきたくて」
「迷惑なんかじゃ……」

 ないけど、私は今確実に年下の高校生に転がされてる。

「俺たまに思うんです。名前さんが俺と同い年で、同じクラスで、同じように学校通ってたらって。もしくは、俺がもっと大人で同じ会社で同じように仕事してたら、とか」
「え?」
「そしたらもっと楽しくなんのかなって。そしたらもっと、違ってたんですかね」

 少し寂しそうに瀬見くんは言う。

「私も、考えたことあるよ。もし私と瀬見くんが同い年だったらって。そしたらどんな感じなのかなって。きっとそれもそれで楽しいんだろうね。あ、でも私学生時代はベリーショートで陸上部だったから焼けて肌黒かったし、今とは全然違うから瀬見くんびっくりするかも」
「え、それはちょっと想像できないですね」
「でしょ。職場の人にも同じこと言われた。……でもまあ、そんなんだからさ、同じだったらこうやって海にも来れなかったかもしれないし。最初に瀬見くんが声かけてくれた日さ、私ドン底でね。良いことなにもなくてさ。でも瀬見くん、優しくしてくれたじゃない? あれがすごく嬉しくて。瀬見くんにとってはとりとめもない事だったのかもしれないけど、あの日の私にとっては唯一の素敵な出来事だったんだ。あの時はまさか一緒に海に来るようになるなんて思いもしなかったよ」

 冷たい海風が吹き荒び伸びた髪を雑に乱す。同じだったら言ったのだろうか。好きです、とかそういう言葉を。悩まずに恋をしたのだろうか。きっと長い目で見たら私と瀬見くんの年の差なんてどうってことないのだろう。営業課の課長は10歳差で結婚したと噂を耳にしたことがあるし。
 でも私たちはどうかな。瀬見くんはこれから大学に入ってもっとたくさんの経験をして社会を知って、色んな出会いを繰り返すだろう。そう考えると私は瀬見くんのことを好きになってはいけない気がしたのだ。なんとなく、どちらも幸せになれないような気がしたのだ。

「名前さん初めて見たとき顔面蒼白で倒れるんじゃないかって思いました」
「え、そんなに?」
「次に会ったときは酔っ払いだったし」
「う……」
「けれど凄く優しいし、綺麗なオネーサンって感じだし」
「それは照れるかも」
「俺にとっては新鮮でした」

 また揺さぶられる。だめだ。気持ちをさらけ出せばさらけ出すほど、降り落ちる。夜空から無数の星が落ちてくるみたいに。

「……そ、ろそろ帰ろうか。冷えてきちゃったよね、身体。コンビニに寄って温かい飲み物買いたいな」

 何かから逃れるように言う。瀬見くんは曖昧に笑って「はい」と言った。胸が苦しい。けれど私はそれに気が付かないふりをして運転を続けた。何事もなかったように会話もした。こういう時オトナとは便利で厄介で狡い生き物だなと思う。逃れることが上手くなってく度に、私は何かを失うのだろうか。

「そろそろ着くけど公園の駐車場で下ろしたらいいかな?」
「はい。それでお願いします」

 ゆっくりと下道を走って、幾つかの信号につかまって。夜がやってくるのが早いこの時期は、公園につく頃にはもう日が地平線に沈む間際だった。

「はい、到着」
「ありがとうございました」
「ううん。こちらこそ」

 瀬見くんは迷う瞳で私を見る。何かを躊躇っているのだろうか。どうしたの、と声をかけるよりも先に彼自身が言葉を発した。

「……名前さん」
「うん?」
「……いや。やっぱり何でもないです、すみません。じゃあ俺帰ります。運転とワガママきいてくれてありがとうございました」
「私も楽しかったから。忘れ物ない?」
「はい」

 シートベルトを外した瀬見くんは助手席のドアを開けて外に出る。窓から顔が見えるように屈めた彼は軽くお辞儀をして背中を向けた。
 見送って深呼吸をする。踏み込めない。踏み込みたい。踏み込んではいけない。踏み込んでほしい。そんな矛盾がぐるぐると廻る。私も行こうとエンジンボタンに手を伸ばしかけたとき、窓をノックする音が届いた。先ほど見送った瀬見くんが同じように身体を屈めて顔を覗かせている。窓を下げ「どうしたの?」と言うと、意を決したような顔で瀬見くんは言った。

「すいません、やっぱり忘れ物ありました」

(17.10.21)