Miaplacidus



 瀬見くんは私がここにくることはないと思っていた、と言ったけれど私も瀬見くんはもうここを走ることはないんだろうなと思っていた。だって瀬見くんが走っていたのは部活の体力作りのためだと思い込んだいたから。
 だけと瀬見くんの部活は終わった。あの日の結果を口に出して良いものなのか判断がつかなくて話題を見つけようと内心必死な私に、瀬見くんはケロリとした顔で言ってきた。

「部活はないけど、こうやって走りたくなるんです」
「えっ」
「いや、だって一応3年のこの時期に勉強しないでなに走ってんだって普通思うじゃないですか」
「まあ、うん。……だね、普通は」
「あ、いや。してない訳じゃないです。でもずっと部活漬けの毎日だったから急に勉強に集中するの難しくて。それが本分っていうのはわかってるんですけどね。けど身体動かしてると気持ちいいんですよ。だからつい勉強に煮詰まったらこうやって身体動かしちゃうんです。俺、小論文はあんまり得意じゃないし」

 恥ずかしげに笑いながら瀬見くんは言う。私も高校生だったころ、そんな風に悩んでいたな。今となってはとるに足らない悩みでもあのときは重大な問題だった。勉強の出来る恵まれた環境にいるということも、出来なくなった今だからわかる。高校生には、高校生の時にしか抱えられない悩みがある。そういう悩みの中に瀬見くんはいるのだろう。

「小論文、あるの?」
「推薦受けるんで、そこで」
 
 それでも、瀬見くんは負けたことを引きずる様子はない。まあ私にその様子を見せても仕方ないとは思っているかもしれない。たった数日で次のことへ頭を切り替えられるところを凄いと思う。悲しむ暇などないのかもしれないけれど、負けて悔しいと思わない人はいないだろう。引退を寂しいと思わないことはないだろう。
 そういう繊細なところが気になるけれど、高校生を相手に踏み込めるほど図太くはない。それでも、私のことを励まして名前を聞いてくれた瀬見くんのことを思うと私もなにか、大人として彼に示せるものがあれば良いのにと思う。それを人は情と言うのだろうか。

「小論文か。私もやったなあ。そうだ、小論文の参考書とか受験用の本いくつかまだあるから譲ろうか? 古いからメインには使えないと思うけど参考程度に」
「いや、けど」
「既に持ってたらごめんだけど、私はもう使わないしそろそろ処分しなきゃと思ってたものだから」

 瀬見くんは迷って、頷いた。

「なら……もらい、ます」
「良かった。明日実家に取りに行くから明後日以降ならいつでもいいよ」
「それなら明後日またここで会いませんか? 時間はええと……今日と同じくらいでも大丈夫ですか?」
「うん、いいよ。じゃあ場所はこのベンチにしよっか」
「俺、いつも何かしてもらってばかりですよね」
「え?」

 いつの間にか、雲に隠れていた月と星が顔を出して、月明かりが照らす。私のほうを見ずにそう言った瀬見くんは言葉の後、私の顔をみて少し困ったように眉を下げて笑った。

「俺、何か出来ることありますか?」

 突然の申し出に驚く。何かをしてもらいたくてこうしているわけではないし、そもそも最初に何かをしてくれたのは瀬見くんのほうだ。あの時の瀬見くん自身だって、見返りを求めて私に優しくしてくれた訳じゃないのに。だから、私だって求めていないのだ。人として、普通のことをしているだけだ。たまたま縁があって、こんな風に長く繋がっているだけで。

「えっと、気にしないで? 私がしたくてしたことだし、瀬見くんに何かをしてもらいたいわけじゃないし。それにええっと、ほら! 私、大人だから! 大人だから、瀬見くんは気を使わなくて良いんだよ」

 ちょっと得意気に言う私を見て瀬見くんは笑った。

「4つしか違わないじゃないですか。年齢は追い付けないけど、俺だってすぐに大人になりますよ」

 そうね。確かにね。だけど本当に気を使わなくて良いんだよ。私は言う。その線引きはいつかの私を悩ませるとも知らず。

「名前さん」

 少しぎこちなく名前が呼ばれる。

「ありがとうございます」
「いいえ、どういたしまして」

 久しぶりに感じる、とても穏やかな夜だと思った。


☆  ★  ☆


 その次の日に実家へ取りに行った参考書を持って、翌々日、同じ時間に同じ場所で私は瀬見くんを待っていた。

「名前さん!」

 遠くから届く声。駆け寄ってくる瀬見くんを見つけると私はベンチから立ち上がり彼に向かって手を降る。

「お疲れさま」
「すいません、待ちましたか?」
「ううん、そんなに待ってないよ。はい、これ。約束の」

 そう言って紙袋に入れた参考書を渡す。

「書き込みもあるんだけど、それはまあ参考程度にしてみて」
「あざっす」

 少し、迷った。もしかしたら私と彼はもう会うことがなくなるのかもしれない。偶然を重ねて会った出会いだから、連絡先も知らない相手だから。けれど彼には彼の世界があって、私には私の世界がある。私は瀬見くんのクラスメイトではない。家族でもない。友人でもない。この関係に名前をつけられない。だから、踏み込む理由はここにはないのだ。

「……じゃあ行くね。推薦入試、頑張って!」

 横を通り過ぎようとしたとき、瀬見くんが「待ってください」と制止の声をかけた。肌寒い風が間を通り抜ける。いつの間にかもうこんなにも寒くなっていたんだなあと、ふと季節の移ろいに気が付いた。

「終わったら、連絡してもいいですか」
 
 少し躊躇うように間を開けた後、瀬見くんは言う。懇願の色を含んだ瞳。私だって通ってきた道のはずなのに、今は瀬見くんが何を思ってそう言ったのかちっともわからなかった。1秒にも満たない時間の間に、私は思考を巡らせる。頭の中のどの引き出しを開けても、ダメと言う理由は出てこなかった。出てこなかったけれど、躊躇いがないわけでもない。

「あ……じゃあ、えっと……」

 それでも結局、鞄からメモ帳とペンを取り出し書きなぐるような字で自分の連絡先を書いた。「ごめん、汚いけど」と先に言ってから連絡先の書いた紙を渡す。

「これ私の連絡先。瀬見くんが落ち着いて、気が向いたら連絡して。合格の報告、私も楽しみにしてるから」

 瀬見くんは両手でそれを受け取る。少しの躊躇いが私の後ろ髪を引く。自分を狡いと思う。瀬見くんに任せた。踏み込か否かを彼に託してしまった。
 未成年の、それも異性と仲良くなるのは大人として正解なのか、それとも不正解なのか。私と瀬見くんの間にある4年の歳月には成人か否かという壁がある。私にはその壁はとても高い壁のようにも思えるのだ。

(17.08.08)