Procyon
「えっと、あ、そしたらどうぞ。ドア鍵かかってないから開けていいよ」
置き忘れたものが後部座席にあるのか助手席にあるのか分からなくてそう言う。すると瀬見くんは頭を横に降って「このまま聞いてください」と言った。真剣な瞳に私はまたしても揺さぶられて、緊張した。
「言わないでおこうと思ってたんですけど、言わせてください」
「は、はい」
「俺、きっと、貴女のこと好きです」
ストレートに放たれた言葉に私の頭は真っ白になる。いや、予想はできたはずだ。接点のない男女がこんなにも逢瀬を重ねているのだから多少の好意はあったはずだ。でも今それを言われるとは思ってもいなかった。ん、だけど「きっと」ってどういうこと?
何も言えない私に瀬見くんは続けた。
「もし、これから先も会えるなら多分もっと好きになると思います」
瀬見くんはまた変わった言い回しをする。
「初めて会ったときは好きになるとは思っていなかったんですけど、気が付くと名前さんのことを考えてました。今日は酔っ払ってないかとか。泣いてないかとか。彼氏とは大丈夫なのかとか。けれど俺には関係ないしと思ってたんです。そしたらまた会った。まあ、格好いいとこは見せられなかったですけど」
「そ、んことはない、けど」
私に向けられた微笑みは少しの寂しさを孕んでいたと思う。
「なんとなく、またさよならするのも勿体ない気がして連絡先を聞いたんです。それから会って、話をして、少しだけど名前さんのことを知って。俺の前で年上らしく振る舞う姿はなんというか、可愛いんですけど、守ってあげたくなる感じでした」
照れ臭そうに言った瀬見くんの台詞に私の羞恥心が増す。年上だもん、大人ぶるよ。
「それが多分、この気持ちの始まりだったんです。だから俺、きっと貴女のことが好きなんだと思います。一緒に過ごせばもっと好きになれる」
かつて一度でもこんな情熱的な告白を受けたことがあっただろうか。いやない。心臓が脈打つ音が自分でわかる。それがいつもよりも早いことも。何かを言うべきか言わざるべきか。それすらも分からない。
「……えっと、あの、私」
「名前さんがどういうつもりで俺と親しくしてくれてたのか分からないですけど、少しくらい俺と同じ気持ちだったら嬉しいって思います」
「せ、瀬見くん、私っーー」
「けど、俺」
瀬見くんは私の言葉を遮る。2度遮って、今度は困ったように笑った。
「……けど、俺、東京の大学なんです」
「……え?」
「春になったら東京行くんです。だから今日、一緒に過ごせて良かったです。俺、名前さんのこともっと好きになりたかったです。時間を重ねて、知らないことを知って、もっと好きになりたかったです。……もしかしたらもう会えないかもしれないけれど、名前さんは泣かない恋をしてくださいね」
「泣かない、恋」
「名前さんは表情豊かで素敵ですけど、俺はやっぱり笑った顔が一番好きなんで。だから、いつも笑顔にしてくれるような人と恋してください。って、こんなこと俺に言われなくてもって感じですよね」
ねえ、私だってきっと同じなの。瀬見くんのことがきっと好き。そしてこれからも会えばもっと好きになってしまう。生きてきた年数も、場所も違うけどそれだけは同じなの。だけどそれが言えない。だって私にはわかる。これはまだ、戻れる「好き」だと。少しの痛みを携えて過去にできる好きだと。瀬見くんもそれをわかっているからこうやって私に伝えるのだ。
でも、泣かない恋なんて出来るだろうか。だって今私は泣きそうな恋をしようとしているのだから。それをうまく過去に出来るだろうか。
「忘れ物はそれだけです。気を付けて帰ってくださいね。それじゃあ、さようなら」
瀬見くんはそう言うと今度こそ背を向けてもう戻って来ることはなかった。日が沈みきった空には星が浮かんでいる。
私はこの感情に気が付かないフリをしようとしてた。そんな私に制止する権利があっただろうか。何かを言う権利があっただろうか。だいたい、出会ったことのほうが奇跡なのだ。出会わなかったと思えばこんなのなんてことない。はずなのに。
「狡いよ、ばか…」
さよなら、と瀬見くんは言った。いつから今日を最後としようと決めていたのだろうか。私の言葉はもう届かない。
それから、本格的な冬が来た。鋭い寒さに私は今年もまた布団から出るのを躊躇い続けた。降る雪はゆっくりと積もる。あれから、瀬見くんと連絡はとっていない。クリスマスがやってきて、年を越して、すれ違う人に面影を探しては見るけれど奇跡というものはここぞってときには起きないらしい。今日も明日も、吐く息は白い。
彼はもう東京で暮らす部屋を決めたのだろうか。不動産会社の前を通るとそんなことを思う。クリスマスを過去にした世間はもうバレンタイン色へと形を変えようとしている。思いのこもったチョコレートを誰かから受けとるのだろうか。そんな風に私は、淡い恋心をまだ過去に出来ずにいる。瀬見くんはもう、私のことは過去にしただろうか。
とりとめもない日々が続いて、時間は平等に進んで、宮城にも春の兆しがやってくる。スーツ姿の新入生らしき集団を見つけて、私はやっぱりまた彼を思い出した。
泣くほどの恋ではなかった、と思う。それでもふとしたときに思い出してしまう恋だった。そう言う点では今までの恋とは全然違う恋だなと思う。
「出張、ゴールデンウィークにかぶってるんだって?」
「最初の1日だけね」
「代休あんの? おみやげは東京バナナで頼む」
「手当か代休って言われたから手当にした。忘れなかったら買ってくるね」
「忘れんなよ」
だけど私は大人だから、何事もなかったように毎日を過ごすし、何事もなかったように振る舞う。月島には少しだけ話はしたけれど、だからと言って何かが変わるわけでもない。ちょっと気持ちが楽になるだけだ。
「まあ、出張とはいえ楽しんでこいよ。旨いもんでも食べてさ」
「もちろん。経費で美味しい食べ物食べてきますとも」
春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来る。そうやって廻るのだ。溢すように恋を落としながら。そしてきっといつか過去になる。私の恋も。彼の恋も。
(17.10.21)