Spica



 掴みきれないままの距離感に、隣に座ると何を話したら良いのか一層わからなくなった。少し温くなった杏仁豆腐を口に運びながら星空を見上げる。風の音と、車の音と、木の音と、コンビニでもらったスプーンの音。

「あの」

 景色に混ざるように、少し小さい声で彼が口を開く。切り出しにくそうに迷いを見せて、それでもやはり聞きたかったのだろう。その口は閉ざされることなく次の言葉を発した。

「もう、大丈夫ですか?」
「⋯⋯え?」
「この前⋯⋯その、泣いてたんで」
「あ、あー⋯⋯うん。それね、それは、うん」
「詳しいことを聞きたいとかそういうんじゃないっすけど、年上の女の人が泣いてるの初めて見たからなんとなく気になって」

 改まって言われると恥ずかしい。いい大人がなに泣いてるんだってそりゃあ、まあ、普通は思うだろう。自分でも気付かないうちに、夜の魔法にかけられていた私は恥ずかしながらもポツポツと高校生の彼にあのときのことを話す。

「⋯⋯フツーにね、よくある話なんだけどさ、簡単に言うとね、まあ彼氏に浮気されててね」
 
 せめて笑い話になればよいと、笑いながら言う。言葉にしてみると自分がいかにむなしい立場にいるのか思い知らされた。浮気されてしまうほど、私はダメな女なのだ。

「一応ね、2年半は付き合っててね。お互い社会人だし、結婚だって考えないわけないじゃない? 今までのこととこれからのこと考えると悲しくなっちゃってさあ。ってこんなのまだ若い高校生の男の子に愚痴ることじゃないよね! ⋯⋯でも、いいなあ。私もあの時みたいな恋愛したいなあ」

 世間体も後先のことも考えなくて、好きという気持ちで走りきれるようなそんな恋。今はもう絶対に出来ないけれど。

「⋯⋯その、なんて言えばいいのかわからないんですけど」
「そりゃあそうだよ。自分のことだから笑って言えるけど、人から聞かされたら私も困るもん。って困らせたくて言ってわけじゃないんだけどね」
「いままでのことは俺にはわからないですけど、同じ男として最低だとは思います。俺は部活ばっかりで恋愛経験とか全然で、年下がなに生意気言ってんだって思うと思うんすけど、そんなやつは選ばなくていいですよ。もっといいやつは多分たくさんいます。だから、そんな人のために悲しくなるの勿体無いです」

 ちょっと恥ずかしそうに、だけど真っ直ぐに伝えられた言葉に私は笑ってしまった。これは喜びからくる笑いだ。まさかそんな風に言葉をかけてもらえるとは微塵も思っていなかったから。いいなあ。高校生って眩しいなあ。

「ごめん笑って。⋯⋯ふふふ。ははは」
「⋯⋯クサいこと言ってる自覚は多小なりとあります」
「ごめんごめん。違うの。そうじゃなくてね。⋯⋯嬉しいなって」
「え?」
「励まされたなって。気が少し、楽になった。ありがとね」

 空になった杏仁豆腐のカップをコンビニの袋に入れて立ち上がる。月明かりと、街灯と、私と、男の子。小さな世界にそれだけみたいで面白い。普段は交わることのない全然違う世界で生きてるのにね。

「こんなありきたりな身の上話を高校生の男の子に話すとは思ってもいなかったなあ。友達にはさ、浮気されましたって情けなくてなかなか言えなかったんだよね。だから話せてちょっとスッキリした。それに言葉にしてみると、ほんっとにあるあるすぎて何でこんなことでアホみたいに悩んでるんだろーって思ったね」
「少しふっきれた顔してますね」
「そう? でもね、あの人のことについてはちゃんと友達にも相談してみようって思えた。いつまでも1人でウジウジするのは良くないもんね」

 雲間から見える星を眺めながら言う。この穏やかな時間を終わらせないといけないのは少し寂しいけれど。私は重たい腰を上げた。

「そろそろ行こうか。こんな話に付き合ってくれて本当にありがとう」
「え、いや俺はなにも。あっ家まで送ります」
「いいよいいよ。うちここから近いし」
「送ります。年下でも、一応男です。それくらいします」

 そう言って立ち上がり隣に並ぶ。当たり前だけど体格は全然違って、高校生と言えどももう大人なんだよなぁと感慨深さを感じてしまった。また、彼の少し色素の薄い髪の毛が月の光に照らされている。綺麗、と思った感情は言葉にはしなかった。
 車のヘッドライトの眩しさ。赤信号の時間が長い交差点。隠れ家的な居酒屋から漂う香り。家までの帰路は思っていたよりもずっと短かった。

「少し待ってて貰っても良い? リストバンドとってくるね」

 そう言ってマンションのエントランスに彼を1人残し、私は部屋に向かった。洗濯物の山の上にあるリストバンドを手に取りまた部屋を出る。これを返してしまえばもう、きっとあの男の子とこんな風に話をすることはないのだろう。本来の、交わらない世界に戻るだけ。ただ、それだけ。漠然とした名残惜しさを感じながら、エントランスに戻る。

「ごめんね、待たせて。はい、これ」

 リストバンドが私の手から彼の手へと移る。コンビニの袋のように、あっさりと。ほんの少し指先が触れる。

「それじゃあ、ここまで送ってくれてありがとう。お礼もあんなのしか出来なかったけれど。色々と、多分あなたが思ってる以上に助かった」

 手を胸の位置まで挙げ、左右に小さく降る。結局、彼の名前を知ることもなかったな。白鳥沢の高校生くん。優しい君はせめて優しい恋をしてね。好きな人を大切にしてあげてね。なんて、私に言われないでもきっとこの子はそういう子なんだろうけど。

「や、こちらこそたくさん気を使ってもらって、ありがとうございました」
「気を付けて帰ってね。白鳥沢の男子寮までは少し距離があるから」
「大丈夫です。走って帰ります」
「うん。何かあったら大声あげてね」
「ははっ、分かりました」

 じゃあね、と言う。最後に軽くお辞儀をして、彼は背を向けた。まだ高校生なのにしっかりした男の子だったなあ。私はそれくらいの頃、多分あんなではなかった。

「あの」
「うん?」

 彼が振り向いた。もう一度だけこちらに顔が向いてその瞳に私が映る。

「⋯⋯おやすみなさい」
「うん。⋯⋯うん、おやすみなさい」

 大きな背中はマンションのドアをくぐって夜に消えていった。浮かぶ星に溶けるように。


★  ☆  ★


 それからひとつの季節を跨いでも、私と彼が再会するとはなかった。当たり前だ。それでもふと、あの時間を思い出すことがある。本当に一瞬。不思議な空間だったと今になって思う。とても優しい男の子。彼は今どうしているのだろうか。受験勉強に勤しんでいるのだろうか。
 暑さの名残を抱きながら宮城にやってきた秋も、もう半ばを迎えようとしている。この間まで嫌ってくらい暑かったはずなのに、朝夕の寒さに早くも耐えられなっていた。ゆっくりと、変わっていくのだ。
 想い出は溢れるほどある。抱いた感情も、覚えた感情も。それでも私も変わっていくのだ。過去は戻らない。木枯らしが鳴く。季節を越えて私はようやく、浮気男と決別することが出来たのである。彼を想う私はもう来し方にしかいない。

(17.07.17)