Alnair
「試合? 弟ってたしか蛍くんって言ったっけ?」
休み明け、会社の給湯室で一緒になった同僚、月島明光はコーヒーをカップに淹れながら思い出したように私に言った。弟の試合を一緒に観に行かないか、と。
「そうそう。試合は来週末なんだけど名字どうせ暇だろ?」
「どうせってちょっと。勝手に暇って決めつけないでくれるかなあ?」
「お前、この間彼氏と別れたって言ってたしさ。スポーツ観るの好きだろ? 気晴らしにもなると思って」
月島はコーヒーをドリップしながら言う。給湯室にコーヒーの香りが漂い、スティックのカフェオレを飲もうとしていた気分が危うくコーヒーへ流されそうになってしまうのを堪えに堪え、マドラーで丁寧にマグカップの中身をかき混ぜた。
「⋯⋯お気遣いどうも」
「それに俺、弟からは来るなって言われてるから一緒にカップル風に装って来てくれるとものすごく嬉しいんだけど」
「弟から試合観に来るなって言われる兄⋯⋯。ふーん、なるほどなるほど。月島に兄の貫禄はないってわけね」
「お前⋯⋯性格悪いな」
「おいこら。応援行かないぞ」
「それは困る!」
「ははっ。いいよ、来週末ね。付き合ったげる。って言ってもカップルは装わないけど」
月島明光と私は同い年とは言え、短大卒で入社した私と4年制の大学を卒業して入社してきた彼とでは一応、2年の経験差がある。だから私は彼のセンパイに当たるわけだが、こういう気のおけない面もあって結局出会ってから1度も敬語で会話したことはなかった。今となっては彼は私の良き同僚であり、良き友人だ。
この間の彼氏との一件だって、事の顛末を話すと月島は深く聞き出そうともせずに肉を食べに連れていってくれた。そういう日々のアレコレを考えると月島には非常にお世話になっているし、誘いを断るのは考えることができなかった。カップルを装うことはしないけど。
「じゃあ時間は追って連絡するよ。当日は車で迎えに行くな」
「了解。じゃあ、午後からもまた仕事頑張りましょう」
「おう」
約束を交わし、私と月島はそれぞれのデスクへ戻っていった。
「えっ代表決勝戦なの?」
行き掛け車の中で月島は思い出したように言った。今日の観る試合、代表決定戦だからと。そうだとは思ってもいなかった私は驚いてつい声が大きくなってしまった。
「言ってなかったっけ?」
「言ってない言ってない。うわー、弟くん凄いじゃん! 勝ったら宮城代表で全国でしょ? 凄い凄い!」
「ふふん。自慢の弟です」
「だねえ。それはどや顔したくなるわ」
「俺はさ、学生時代全然だったからアイツには期待もしちゃうんだよね。社会人になってスポーツやってても、あの時にしか得られないものってたくさんあるだろ? 蛍にはそれをたくさん知ってもらいたいなあってさ」
「いいお兄ちゃんじゃん。私一人っ子だったらそういう風に言ってくれる兄弟欲しかったなあ」
分かる、と思った。私は今はもうスポーツはやっていないけれど、同時のことを思い出すとあの頃にしか得られないものってあったと思う。私がそれをどれだけ得られているか明確に言えないけれど、今となっては得られないものがあの日々にはあったのだと、戻れない身になると痛いほど分かる。
ゆっくりと、自分でも気が付かないうちに社会に染まって。ひた向きな、眩しいくらいの情熱は少しずつ苦手になってしまう。まだそれを捨ててはいないはずなのに。月島の運転する車に揺られ、去っていく景色を見ながら私は少しノスタルジックに駆られていた。恋を失うと去り行く景色に、そういうものをひとつずつ置いていこうとするのかもしれない。降りきってはいても、過去は過去として確かにそこにあるのだ。
「そう言えば相手はどこの高校なの? 私の母校もバレー部は強豪だったんだよね」
「相手、白鳥沢だけど名字どこ高出身?」
「えっ私、白鳥沢卒だよ」
「まじ?」
「まじまじ。うわっ、蛍くんも応援したいけどOGとして母校も応援したい!」
「白鳥沢は在校生だけで応援凄いし、ここはひとつ烏野の応援で頼む」
「えー烏野だって応援凄いんじゃない? たしか烏野も強豪校だよね? 私も学生だったとき応援行ってたから何か聞いたことあるなあとは思ってたんだよね⋯⋯あ。ってことは当時私と月島ってどっかで会ってたかも? 月島、烏野のバレー部だったんでしょ?」
「まー応援席の選手でしたけど」
「わっそれは⋯⋯なんかごめん」
「謝んなよ、逆に傷付くわ!」
「えーごめん」
「それに烏野が強豪だったのは昔の話で、ここしばらくはずっと芽も出なかったんだよ」
「そうなの?」
「だから代表決勝戦も数年ぶりでさ。という訳で、今の烏野は白鳥沢に比べると応援の数が少ない! よって、名字は烏野の応援をすること」
ちょうど話の区切り良く駐車場に車を止めた月島はサイドブレーキをかけると私の方を向いてそう言いながら笑った。そんな顔で言われると頷くことしか出来なくなってしまうじゃないか。
「わかりました、わかりました。今日は一生懸命に蛍くんと烏野の応援をさせていただきます」
だって私は知らなかった。あの男の子が白鳥沢のバレー部に所属ていることを。どんな想いであのボールに触れていることも。名前すら知らなかったんだから。
会場に着くとそのボルテージに感化される。広い体育館を埋める観客。高校生の試合とは言え、県の代表をかけるこの試合は注目されない分けなかった。コートに人々が視線を向ける。12人の選手が繰り広げる攻防。ホイッスルの音に続いて高く挙げられるボールは放物線を描く。選手交替の音が鳴り、ようやく私は気が付いた。
「⋯⋯えっ」
応援にかき消された私の声は月島にも届かなかっただろう。3番のプラカードを持った人物の顔を見てハッとする。数ヵ月前の、あの男の子。その彼の名前が瀬見英太というものだということを、私はこの時知ったのだった。
ピンチサーバーとしてコートへ足を踏み入れる瀬見くん。私の隣に居たときとは顔付きが全然違う。彼がボールを放つ。上へ、高く、美しく。これまでに蓄えた技術を身につけて闘うのだ。この小さいコートで。目が釘付けにされたように瀬見くんを追ってしまっていた。彼はもう、私のことなんて覚えていないかもしれないな。
繰り広げられる攻防はそれでも必ず終わりを迎える。白熱の戦い。どちらが勝ってもおかしくはなかった。だけど、笛は鳴る。試合終了の合図。宮城県代表決定戦は、烏野高校バレー部の勝利で終わりを告げた。スポーツとは残酷であるということを私は久しぶりに痛感させられた。
(17.07.18)