Aldebaran



 月島の喜びようと言えばなかった。破顔どころじゃない。その様子を見ながら私も満足感を得るけれど、心のどこかであの男の子のことが気になっていた。彼は今、何を思っているだろうか。私なんかがこんなこと思っても仕方ないのに。

「よし、名字。今日は俺のおごりだ! 肉食いに行こうぜ」
「えっほんと? やったー! お肉!」

 駐車場に向かう途中、上機嫌の月島が言う。洗いやすい服で良かったと安堵していると、鞄に入れていた化粧ポーチをトイレに忘れていることに気が付いた。

「ごめん、私さっきお手洗いでポーチ忘れたっぽい。ちょっと取りに行ってきてもいい?」
「ん。そしたら先に車ん中にいるわ」
「わかった。すぐ戻るね!」

 会場から出てくる人の波に逆らって駆け足で戻る。先ほど寄った1階にある女子トイレに入ると、私の予想通り、鏡の前にポーチが置かれてあった。良かったと安堵して女子トイレを出る。
 来た道を戻ろうとロビーを歩いていると、ぞろぞろと白鳥沢の名が刻まれたジャージに身を包んだ数人の男の子たちが目の前を通りすぎる。その中に瀬見くんを見つけ、私はつい立ち止まってしまった。まあ向こうは気付くことはないよなあ、なんて考えていると目と目が合う。立ち止まる私と同じように立ち止まった彼は仲間からの「瀬見さん?」という呼び掛けにようやく意識を取り戻したかのようだった。

「どうしたんです? 行きますよ」
「悪い。すぐに追い付くから先行っててくれ」
「え?」
「頼んだぞ、白布」

 そんなやり取りが終ると瀬見くんは仲間が歩き出すのを見送ってから、自身も私の方へと足を進めてきた。え、と驚きながら高まる緊張にどこか私もぎこちなくなる。私の眼前で足を止めた彼は綺麗なお辞儀をしたあとに言った。

「覚えてますか? 俺のこと」

 何度か首を縦に降りながら私は答える。

「うん。もちろん。忘れてないよ。えっと、瀬見くんこそ私のこと覚えててくれたんだね」
「俺の名前……」
「選手一覧でさっき見て。バレー部なの知らなかったから試合で見たときはすごく驚いちゃったけど」
「俺もまさかここで会うとは思ってもみませんでした」

 試合に負けたはずなのに、瀬見くんは以前私と接していた時と何も変わらない。泣いたような様子もない。その事について声をかけるべきかどうか迷っていたら試合について向こうから話を振ってきた。

「試合、観てましたよね?」
「うん。実を言うと今日は知り合いに誘われて烏野高校の応援に来てたの。でも途中で瀬見くんを見つけて、知り合いには内緒だけど心の中で白鳥沢も応援してた」
「結果はこれでしたけどね」
「おつかれさま。本当に」

 肩をすくめて彼が笑う。高校生活最後の試合。そんな大切な試合を終えた彼にどんな言葉をかけても意味がないような気がして結局私はたいした気のきいたことも言えずじまいだ。

「じゃあ俺、行きます」
「あ、うん。引き留めてごめんね」
「声かけたのは俺の方です。それじゃあ」
「うん。それじゃあ」

 去り際に軽くお辞儀をした瀬見くんは小走りで玄関へ向かおうとする。見送ってから私も行こうとその背中を見つめていると、少ししてから彼が踵を返しこちらへと戻ってきた。忘れ物? と首を傾げる私に瀬見くんは再び私の目の前へと戻ってきたのだ。

「えっ?」
「……あの」

 少し言いずらそうに視線をそらしてから彼は言った。

「名前、を。……あなたの名前を教えて下さい」

 時が止まったように感じたのは驚きや衝撃からだったのだろうか。それともほかの何かだったのだろうか。瀬見くんの言葉をゆっくりと理解しながら、瞬きを数回繰り返し私はようやく口を開いた。

「名字名前、です」

 名を言う。瀬見くんは満足そうにほんの少しだけ口角を上げた。ように見えた。そして今度こそ、私に背を向けて玄関へと向かっていったのである。ようやく私は思い出す。あ、月島を待たせていたと。同じように小走りで私も玄関へ行き、駐車場にある月島の車を探した。

「ごめん! 遅くなった。知ってる人に遇って少し話してた」
「忘れ物はあったのか?」
「バッチリ大丈夫」
「よし、じゃあ焼き肉行くぞー」
「お願いしまーす」

 それでも私の取るに足りないちっぽけなプライドは、一瞬でも年下に惑わされたと認めようとはしなかったのだ。


☆  ★  ☆


 ああこれ調子に乗ってお肉食べ過ぎたやつだ。と2日後、体重計に乗って軽く後悔を覚えた。思い返してみるとこの間も飲み会でいろいろ食べたし、友達と何度かランチにも行ったし、豪華な食事をしすぎている。そりゃあ増えるわけだ。
 知りたくなかった数字をまじまじと見つめながら私は決意した。よし、ダイエットをしようと。そうと決まれば行動あるのみだ。定時で仕事を終えた私はタンスの肥やしになりつつあったトレーニングウェアを引っ張りだし伸びた髪を1つにくくった。この季節の良いところは日が落ちるのが早いお掛けでこの時間からランニングを始められることだ。夏場だったらまだ日が照っているから日焼けが怖くて早いうちに外を走ることなんて出来ない。
 私は必要最低限のものだけを持って公園へ向かった。準備運動をして久しぶりに走る。中高で運動系の部活に入っていたとは言え、数年のブランクがあるからやはり早くから息があがってしまう。顕著な衰えに虚しさを感じながら私はそれでも脂肪を減らそうと足掻くように走っていた。しかしそれも小一時間ほどが限界だ。これは明日筋肉痛なると確信を持ちながら倒れるように誰もいないベンチに腰を下ろした。

「し、しんど……」

 流れ出る汗をタオルで拭う。冬が近づいているっていうのにこのときばかりは暑くて仕方なかった。休みながら数名いる他のランナーたちを目でおう。私より全然こなれている感じが漂っていて少し悔しい。とばりの降りた空を仰ぐ私に声がかかる。

「あの、すいません」
「えっ……瀬見くん?」

 そこにはなんと、つい先日会ったばかりの瀬見くんがいたのだ。彼は立ち止まりこちらを見ていた。驚く私とは対称的に安心した様子で「よかった、間違ってなくて」と小さめの声でもらす。

「ランニングですか?」
「うん、そう。恥ずかしながらここ最近食べ過ぎてて体重の方がちょっと、ね……」
「新鮮ですね、そういう格好。あれ以来ここで会うことがなかったからてっきりもう公園には来なくなったのかと思ってました」
「夏は仕事が繁忙期でね、ずっと残業してたんだ」

 瀬見くんは少し迷いを見せて、いつかのように言う。「隣、いいですか?」と。そしていつかのように私たちはまた隣り合ってベンチに腰かける。あの時より少しだけ距離が近いのは多分、互いの名を知ったからなのだろう。

(17.07.23)