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 肌寒い夜の道を抜ける。試合を思い出すと足取りが浮かれる。こんなことを言えば侑あたりに心配されるかもしれないな。けれどあれから不審者について新しい情報を聞くこともないし、警察の見回りもあるし。最近は歩いて帰ることも多いけれど身の危険を感じることはなかった。
 部屋にたどり着くと乱雑にパンプスを脱ぎ捨てて、着替えもしないままベッドへ飛び込んだ。疲れた、と誰に言うわけでもない独り言を呟いてからスマホを確認する。宮侑。その名前と不在着信の履歴がすぐに目に入って、思ってもいなかった着信に私は少し動揺した。
 わざわざ電話をかけてくるなんて珍しいことだ。もしかしたら何か緊急の用事があったのかもしれないと、時間は遅いと分かっていたけれど私は侑へ折り返しの電話をかけた。起き上がって壁に身体を預けて数コール。

『かけ直すの遅いで!』
「えっあ、ごめん。今帰ってきた。え、なにかあったの? 大丈夫?」
『また仕事しとったん? まてや、せやったら俺の活躍見とらんの?』
「違う違う。今日は試合見るために頑張って定時上がりしたの。それで先輩と一緒にお店でお酒飲みながらパブリックビューイングしてた。だからちゃんと見てたよ。メダル、とりあえずおめでとう!」

 向こう側が少し騒がしい気がする。明日は試合がないとは言えこの時間だし出掛けているわけじゃないと思うんだけど。なんか後ろ盛り上がっているね、と言おうとした時スマホの向こうの声が変わった。

『名字! 俺!』
「⋯⋯木兎さん?」
『そー! いまツムツムの部屋で語ってた!』
「楽しそうですね。何かあったわけじゃないんですよね?」
「なにかって?」

 突然の電話だったので。そう言おうと思った言葉は遮られた。

「俺のスマホや! は? いやなに勝手にカメラ起動してんねん!」
「え?」

 慌ててスマホの画面を見る。画面一杯に広がる侑の顔。動きが激しいからブレにブレて、時折姿を見せる木兎さんはもはや認識出来ない。
 明後日も勝つぞー! と声高らかに言う木兎さんの声が聞こえる。すぐに誰かの声がでけぇ! という声も聞こえて大の大人が何をやっているんだと私は笑ってしまいそうになった。まるで男子高校生みたいだ。

「賑やかだね」
「賑やかすぎやろ」
「いいじゃん。浮かれなよ。メダルだよ? この大会では久しぶりなんだし」
「まだ銅メダルやろ。一番目指さんでどないすんねん」
「少しくらい浮かれればいいのに」

 カメラを切ろうとはしない侑と画面越しに会話をする。仕事終わりに加えてお酒を飲んだ後の私の顔は決して綺麗とは言えないけれど、侑はそれをからかうことはしなかった。

「部屋ん中初めて見たわ」
「え? ああ。意外と綺麗でしょ? あんまり買い物にも行かないし物が増えないんだよね」
「ふーん」

 ぐるりと回転しながら部屋の中をカメラに映した。多分、男物が写り込んでいると思う。それが元彼のものだと言うことも、侑はわかっているんじゃないだろうか。それでも侑がそれについて尋ねてくることはなかった。

「残りの試合も頑張ってね」
「当たり前や」
「明日は試合ないんだからしっかり体調整えてね」
「わーっとる」

 侑はまるで口うるさい小言を聞いているような顔だった。ふいに、先輩が言った仲良しという言葉が蘇る。どうして侑は試合が終わった後に連絡をくれたんだろうとか、そんなことは考えてはいけない気がした。
 そっと、目の前にある写真立てを見つめる。私と、私の好きな人が幸せそうに笑っている写真。制服を着た、今となっては幼さを感じる2人の笑顔。どうしてこの人は死んでしまったんだろう。なんで侑といるときはいつも彼を強く思い出してしまうんだろう。

「なあ」
「え?」

 スマホの小さな画面越しに私を見つめる侑の瞳。

「約束、守るからしっかり見とれよ」
「あ⋯⋯うん。うん、わかった」

 あのお礼の約束は忘れられてなかったようだった。これから先の人生、こんな気持ちを味わうことがどれくらいあるんだろう。言葉に出来ない感情を、自分でも分からない感覚を、繰り返していかなければいけないんだろうか。だとしたら生きていくって残酷だ。

「まさか今日パブリックビューイングしとるとは思わんかったわ」
「あ、えっと、会社の先輩に誘われて」
「⋯⋯男か」
「いや先輩だし。そういうのとかじゃないから」
「お前、ほんま⋯⋯そういうとこやで!」
「どういうとこか全くわからないんだけど。あれだから、警戒心持てとかそういう話なら私はもう今日自惚れかましたから関係ないから」
「は?」
「聞かないで。自分が恥ずかしい」

 男性に二人きりでと誘われたからって気があるかもと思ったなんて自意識過剰が過ぎる。穴があったら入りたい。男性経験なさすぎか。いや、ないか。実際付き合ったのは彼一人だったんだから。大人の恋愛なんてしたことないんだし。することだって、ないんだし。

(20.05.09)