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 あの頃はこんな未来がくるなんて誰も想像しなかった。だったらせめて、あの人にとっては幸せな今であればいい。


ターコイズグリーン


 全日本男子バレーの今年の国際大会は第3位という結果で幕をおろした。今年度の召集はこれにて終わり、各自自分達の所属するチームへ戻る。すぐに今季のシーズンが始まるから選手たちは忙しいまま冬を迎えていくことになるだろう。
 また来年、各チームから選ばれた代表メンバーと会えることを楽しみにして、私の仕事も緩やかに落ち着きを取り戻していた。

「名字さん今日定時で帰ってええよ。ずっと頑張ってくれとったし、もう仕事も落ち着いたから」
「えっでも⋯⋯」
「それに残業時間超過すると監査ん時、職場環境について色々言われるんよね」
「そういうことなら、今日はちゃんと定時で帰ります」
「あと有給休暇もたまっとるからとってな」
「⋯⋯はい」

 16時を過ぎた頃、私のチームの主任が穏やかな顔付きでそう伝えに来た。
 定時まで後1時間30分。いま取りかかっている作業もその頃には終われそうだ。終われそうだけど、予定もないし。ふと侑の顔が浮かんでダメ元で連絡をした。今年はもう侑と仕事をすることはないし、3位とは言え直接おめでとうの言葉くらい言いたかった。

『おつかれ。今日定時上がりなんだけど、時間合うなら夜ご飯どう?』

 忙しいだろうし、もしかしたら今日中に返事も来ないかもしれないと期待せずに残りの仕事をこなす。

『20時からやったら行けるで』

 返事を確認したのは会社を出てからだった。まだ明るいはずの空はいつもと比べると薄暗くて、雲の様子は今にも雨が降りそうだ。確か鞄に折り畳み傘は入れていたはずと中を確認する。

『わかった。そしたら20時まで時間潰してるから終わったら連絡して。練習あるならそっち優先で大丈夫だから』

 雨が降らないうちにと近くにあるカフェへ急ぐ。お店のドアを開けた瞬間、挽きたてのコーヒーの香りがとどいた。ブレンドコーヒーを頼んで読みかけの本を開く。読みかけだけどここ最近はずっと鞄のそこで眠っていたから内容が思い出せない。最初から読み始めようとしおりをとってテーブルにおいた。


* * *


 時計の秒針の音がやけに心地よくて、気がつくと時間は19時を過ぎていた。コーヒー一杯で過ごすには長居し過ぎたと慌てて席を立つ。それでも侑から連絡がくるまでは少なくともあと1時間はある。
 駅ビルに行って服でも見ようか。そろそろ新しいパンプスを買っても良い頃合いだ。お会計を済ませて店を出る頃には雨が降っていて、折り畳みの傘を開いた。足元にある水溜まり。気をつけて歩かないと靴を汚してしまいそうだ。

『すまん! 今日無理そうや!』

 軒先で震えたスマホの画面には侑からのメッセージが表示されていた。

『おつかれ。いいよー、気にしないで』
『ほんますまん。時間つぶしとった?』
『カフェで本読んでただけだし平気だよ』
『近いうち埋め合わせするわ』
『ううん。私も急だったし』
『今度は俺から連絡する』
『わかった。じゃあ今日はおやすみ』

 自主練でもするのかな。突然消えた予定に、私の脚は行く先を見失った。帰ろうか。いや帰るしかないか。買い物をする気分も雨と一緒に流されて、まっすぐ家に帰るために折り畳み傘をひらいた。
 お腹は空いているけどひとりでお店に入るのもめんどくさくて、結局デパ地下で半額になっていたデリを買った。電車に揺られて、ビニール袋も揺れる。ほとんどいつもと変わらない日々。
 明日になればまた仕事が始まって、同じように家に帰るんだろうな。安定した私のつまらない日々。電車の窓に映る私は雨粒で歪んでいる。もしも今日、侑と会えたら私はどんな顔をしたのだろうか。
 改札をくぐり、再び傘を指しながらビニール袋に入っているデリが横にならないように気を付けながら家までの道を歩く。雨はほとんどあがっていて、水溜まりを避けるように歩くとヒールの音が閑静な住宅街に響いた。ふと、その足音に混ざる違う足音を感じる。

「⋯⋯ん?」

 歩調がなんとなく同じだ。振り返っても誰もいなくて、私は足早に部屋へと向かった。解決したと思い込んでいた変質者がまた現れたのだとしたら。思い過ごしかもしれないけれど、都会なんて気を付けるくらいがちょうどいい。
 足元が濡れるのも忘れて、私はマンションまでの道のりを小走りで駆けた。それでも私ではない足音は消えない。マンションのエントランスへ入る直前、もう一度振り返って見たけれど人の影は見えないまま。思い過ごしであることを願いながら、私は家路についた。

(20.06.20)