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 ひたむきな貴方の毎日が、栄光で溢れますように。 


シクラメンピンク


「侑」

 私は自分でも気が付かないうちに、侑の優しさに甘えていたのかもしれない。
 侑といると時々、自分がやけに子供じみていると感じることがある。はらなくていい意地をはったり、言わなくていい言葉を言ったり、とらなくていい行動をとったり。名前を呼ぶと、私の方を向いた侑の顔を見てひどく安堵した。
 ヒーローと言った木兎さんの言葉はあながち間違ってはいない。少なくとも、私にとって侑という存在はそれにとてもよく似ていた。

「この前のことを、話したいと思ってて」
「そんことなら俺が言い過ぎたわ。すまんな、嫌な気持ちにさせて」

 侑はすんなりと謝罪の言葉を口にした。そのことに動揺しながらも平然を装う。どうしたらまた以前のように戻れるんだろう。そんなことを思いながら、口から出そうとする言葉が正解であるかどうかを考えて言葉を紡いでいく。

「それを言うなら私もごめんだし」
「間違っとらんやろ。実際、俺は好きな奴が死んでもうた経験なんてあらへんし。その気持ちはわからんわけやし」

 この年齢でそんな経験をする人の方が少ないことくらい私だってわかっている。自分だけが不幸になわけじゃないことも。幸せそうな人だって何かしらの不安や悩みごとを抱えている。多分、みんないつだって悲劇のヒロインにも幸せなお姫様にもなれるのだ。
 だけど。だけど、いつまでも悲劇の中にいたらこれ以上の辛いことなんてないと思える。もう二度とあんな悲しみを経験しなくて良いという安心感。ただそれに浸っていたかった。生きている限り、対峙しなくてはいけないものはたくさんあるというのに。

「でも少しほっとしてるところもあって。ずっと誰にも言えなかったから口に出してなんかちょっと、肩の荷が降りた⋯⋯みたいな」

 魔法みたいにパッと消えてしまえればいいと思うのは本当だ。いつか終わる幸せを怖いと思う心もある。だって、あの人の存在しない世界でこれからも生きていくのは私自身だ。何年、何十年、生きていかなければならないのなら悲しみは少ない方がいい。
 だけど私にとって侑との出会いは、その中の数少ない幸せだったように思える。私はこの人がいなくなったらとても悲しいし、嫌われたらすごく傷付く。喧嘩は出来るだけしたくないし、一緒に仕事が出来ることが楽しいと思う。同時に、侑のバレーボール人生が栄光に溢れますようにと願っている。

「怒ってくれてありがとう」
「は、いや、お礼言われるようなことやないやろ」
「侑だからあんな風に怒ってくれたのかなぁって。私多分さ、侑と友達になってなかったらもっと卑屈だったと思う。もっと自分の人生が嫌いで、もっと淡々と生きてたと思うんだよね。侑にとってはたくさんいる友達のうちの1人でも私にとっては凄く大切な友達っていうか……いやごめん急にこんな照れ臭いこと言うなって感じだよね」

 マンションのエントランスが見えてくる。何年も、何年も通いなれたこの道。絶望も幸福も詰め込んで歩いたこの道を、私はもう違う誰かと歩いていけるようになっていた。流れ続ける時間は等しいのだと嫌でも思い知らされる。

「まあ、だから。これまで通りに仲良くしてくれると嬉しいし、嫌わないでほしい、です」

 私の気持ちはすべて吐き出した。
 マンションの前について、荷物をとってくるから待っていてほしいと告げた私の腕を侑は掴んだ。驚いて声もあげられぬまま侑を見上げる。私よりも苦しそうに顔を歪める様子に心が揺れた。

「無欲すぎや」
「⋯⋯え?」
「ええ感じにまとめたみたいに言うてるけど俺は納得してへんからな」

 腕を掴む手に力がこもる。痛いくらいの力で握られたそこから伝わる熱に私は息をのんだ。もう、強く願っても時間は止まらない。寒いはずなのに熱い。矛盾した感情を抱え、侑の言葉を待った。

「お前はもっと欲望のままに生きるべきや」
「欲望⋯⋯」
「俺を見習え」

 言葉にならない熱だけを残して、ゆっくりと侑の手が離れていく。
 何故かふいに、私を見つめる侑のその瞳に亡くなった彼が重なった。今度は私が侑に手を伸ばしたくなって、動き出しそうになった指先を慌てて止める。

「俺はな、幸せにならなあかんねん」
「え?」
「治より幸せになって、俺の方が幸せやったぞって言うんや」
「う、うん」
「そんためにはなぁ、バレーで1番になって、美人のお嫁さんもろて、可愛い子供産んでもろて、いつまでもバレーして、旨い飯食って、そんでじいさんになったら皆に見守れて死ぬんや。これが俺の幸せ家族計画や!」

 侑らしい平凡で壮大な計画に私は思わず笑ってしまいそうになった。

「いいと思う。素敵で、きっと最強に幸せだね」
「そんなかにお前もおってほしいねんけど」
「⋯⋯うん?」
「お前1人幸せにするくらい俺にとっては朝飯前や。今までもこれからもまるっと全部支えたるから幸せになる覚悟決めろや」

 言葉が生まれた瞬間、私の世界は変わった。

「好きな女が幸せに過ごすことも追加やな。そしたらもっと最強や」

(20.08.03)