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 マンションのエントランスまで来て、私は振り返って侑を見た。

「寄っていきますか?」
「寄らへん」

 頑なにそう言われれば、これ以上食い下がる理由もなくて私は「じゃあ最後まで送ってくれてありがとう」と手をふる。

「ちゃんと化粧落として風呂入って歯磨きするんやで」
「お母さんか」

 何度か侑と一緒にご飯に行ったことはあったけどこうやってマンションの前まで送ってもらうのは初めてだなと思った。
 誰かと恋愛をする気は毛頭ない。生きるだけ生きて、1人で死んでいく。生きていくための仕事をして過去に想いを馳せて、そうして死期を受け入れる。それが私の死ぬまでの人生。それで十分だし、別に他に何かは望まない。私がこんな考えをもっているなんて知ったら、きっと侑は私のことを嫌いになるんだろう。
 だって侑は卑屈な考えを嫌う。侑と恋愛することなんてないけれどこの人に嫌われるのは悲しい、かもしれない。

「またな」

 簡単に侑は私の頭の上に手をおいた。この身長差だと私の視界には侑の胸板しか入ってこない。

「うん、じゃあまた」

 侑が手を振りながらエントランスを出ていく。マンションの前の通りは大きいから、さっきのコンビニまで戻る前にタクシーを捕まえられるかもしれない。そんなことを心配しながら私は自分の部屋の中へ戻っていった。


* * *


 翌朝目が覚めると少し頭が重たかった。二日酔いまではいかないけれど、飲み過ぎたことは否めない。まあ今日は休みだから多少体調が優れなくても問題はないけど。食欲はわかなくて、インスタントのスープを飲む。体に染み渡る旨味を感じながら、私は部屋の中を見渡した。
 私の物の中に混ざる、死んでしまった彼のもの。大学生の時から住み続けているこのマンションには、思い出がありすぎた。多分、私一人では抱えきれないそれを私は今でもがむしゃらに持とうとしている。辛くても悲しくても私は生きていかなければいけないんだなと痛感させられる。
 私は大人だからそんなのおくびにも出さずに仕事をするけれど、果てのない人生は時々、どうしようもなく私の気力を奪うこともある。

『これ忘れとったやろ』

 侑からのそんな連絡で、私の意識は浮上した。続けざまに届いた写真を確認すると、私の仕事用具が写っていた。

『え! なんで侑が持ってるの?』
『昨日財布出すのに鞄ん中探してるとき一旦持ってくれ言うて俺に渡しとったやろが』
『誠に申し訳ない。今の今まですっかり忘れてました』
『昼から練習あるから終わったら届けにいったるわ』
『か、神様〜!』
『褒め称えろや』

 部屋の中で1人、笑ってしまいそうになるのを堪えながら神様にお願いしている絵のスタンプを送る。数年前はもう2度と笑うことなんてないんだろうなとさえ思っていた。でも今の私は笑っている。細やかなことで。いつか私は悲しささえ忘れてしまうんじゃないだろうか。そう思うと怖くて自分が酷い人間のような気がして、絶対に忘れるものかと、悲しみに浸ることを良しとしてしまう。


* * *


 19時を過ぎた頃、侑からマンションの前に着いたと連絡がきた。パーカーを羽織って、部屋着のまま下へ降りる。私に気がついた侑がこちらを見る。髪色もあってやっぱり目立つし、一緒にいるときの行動はもっと気を引き締めていかないと駄目だなと再認識させられた。

「ごめんね、わざわざ」
「ええけど」

 忘れ物を侑から受け取る。見送ってから部屋に戻ろうとその場に立つが侑は一向に動こうとはしない。どうしたのかと首を傾げると、侑は私の目をまっすぐ見ながら言った。

「彼氏おるん?」
「は?」
「聞いたで。イケメンの彼氏おるって」
「いや、誰から?」
「木っくん」
「あー⋯⋯」

 そう言えば前に木兎さんと赤葦さんと宅飲みしたことあるんだった。仕事で赤葦さんと知り合って、そしたら木兎さんと高校時代同じチームだったっていうから話が盛り上がって結局3人で飲んだんだよね。多分、その日木兎さんは部屋に点在する忘れ形見を見てそう思ったんだろう。

「いるかいないかなら、いない」
「いないならちゃんと否定せいや」
「いないけど、彼氏つくるつもりは一切ない。恋愛するつもりもない。だから、その噂は嘘だけど私にとっては楽だからそのままでもいいかなって」
「なんやねんそれめんどくさいわ」
「侑だってうるさい女はすかーん! って言ってたじゃん。私もそんな感じ」

 眉を寄せて、怪訝そうに私を見る。何一つ、嘘はない。言わないことが多いだけで、言った言葉に嘘偽りはない。

「ええわ。彼氏はおらんのやな」
「まあ、うん」
「わかったわ。ほな帰るわ」
「あ、うん。気をつけてね」

 夜に消える侑の背中をここで見つめるのは2度目だ。きっともうこんなことは無いだろうと思いながら、私はまたあの思い出の残る部屋へと戻っていった。

(20.05.15)