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 侑は苦い顔をした。

「昔の男忘れられへんのかい」
「うーん、まあ、それはなんていうか」

 ギムレットが侑の口の中へ消えていく。
 話題を変えようにも何も思い付かなくて、自分のことではなく侑のことについて話をふった。

「侑は昔の彼女の思い出とかないの?」
「別に」
「侑はさ、モテてたでしょ?」
「試合中もキャーキャー言われんのダルいで」
「あはは⋯⋯」
「そら嫌な気はせえへんよ。迷惑かけてこん限りは。好きやから付き合うてきたし。やけど思い出言われてもな。そん時は楽しかったんやろけど、今はどうも思わんしな」

 淡白だと思った。だけど羨ましいとも思った。
 1度でも好きになった人を忘れられる感覚はどんなものなんだろう。楽しかったという感情をきちんと過去に置いていけるのはどんな感じなんだろう。

「私とバレーどっちが大事なん、て言われた時は一瞬で冷めたわ。そういうこと聞いてくるめんどくさい女とは絶対に付き合いとうないな」
「それはさ、まあ、若かったっていうのもあるんじゃない? 同じ土俵で語れないものがあるってわかるのは少し年齢を重ねてからなのかなって思うし」

 お互いのカクテルが減っていく。

「私達きっと学生の時に出会ってたらこんな風に仲良くならなかったね。侑にとっては私、道端の石ころみたいな存在だったと思うし」
「なんやねん石ころて。お喋りも出来ひんやん」
「出会ったのが大人になってからで良かったなって話」

 影の差す瞳で侑は私を見る。見慣れているはずなのにまじまじと見つめ返すと、整った顔に気まずさを感じる。いつもは見上げてばかりのその表情も、こうやって椅子に座れば近くなる。

「名前とは相性ええ気がするんやけど」
「え?」

 聞き返す私に侑は変わらずに見つめるだけだ。
 ギムレットはアルコール度数の高いお酒だ。一杯でも酔うには十分すぎる。
 私達は仕事仲間で友達だからこそ今ここで一緒にお酒を飲むことが出来る。それ以外の部分には触れ合うべきではない。

「今日は侑が酔っぱらいか」
「酔ってへんし」

 26だよ。恋愛のなんたるかが分かるほど経験があるわけではないけれど、どういう流れでどうなるかが分からないほどお子さまでもない。自分の経験だけじゃなく、人から聞く経験も踏まえて私達は恋を知る。
 ギムレットを飲んで帰ろう。早すぎるなんてことはないのだから。

「遅くなったらいけないから飲んだら帰ろう」
「⋯⋯そうやな」

 侑はいい人だ。一緒にいて楽しいし、優しいし、何より私に良い影響を与えてくれる。そういう人だからこそ、間違いを犯したくない。
 お互いカクテルを飲み終え、私は強引に会計を済ませる。侑は渋々と言った雰囲気だったけれど「試合の活躍よろしくね」と言うと私の頬を軽くつまみながら「わかっとるわ」と答えが返ってきて、この話は結局これで終わりとなった。

「侑はタクシー?」
「どっちでもええけどお前は?」
「んー電車はまだあるんだけどタクシーで帰ろうかな」
「ほなら途中まで一緒に乗ろか?」
「あ、でも私マンションの前まで乗りたいから遠回りになるよ」
「そんくらいええけど、どうしたん?」
「なんか最近うちの近所で不審者の目撃があったんだって。気にしすぎかもしれないけど、今日は時間も遅いし一応と思って」
「はぁ? もっと早よう言えや!」

 侑は不機嫌そうに顔をしかめて私に怒った。その様子に、いや侑に言っても特に変わることはないんじゃ⋯⋯と思ったことは口に出来なかった。

「何もあらへんのやな?」
「今はとくにこれとったことはない、かな。目撃もしてないし」
「⋯⋯遠回りでもええわ」
「え?」
「タクシーひろうで」

 数時間前と同じように流しのタクシーをひろうと私達は並んで後頭部席に座った。平日の夜とは言え人もそこそこ多い。いつかのように私と侑を乗せたタクシーは明るい街を背にして走って行く。

「さっき前の彼女の話を聞いて思ったんだけどさ、あれだけ聞くと侑は冷淡な人だなって感じだけど、自分のテリトリーの中にいる人のことはちゃんと尊重してくれて、すっごく大事にしてくれるよね。⋯⋯ありがとね、心配してくれて。わざわざ遠回りだし」

 バレーと関わらなくなった私は、いつか侑のテリトリーから外れてあっさりと過去に置いていかれるのだろうか。いいけど。気が楽だし。ああでも少し寂しいな。

「誘ったの俺やし」
「言い出しっぺは私ね」

 それからしばらく無言のままタクシーは走った。
 1度だけ車体が大きく揺れて、運転手がすみませんと謝罪する。私達の間に置かれたお土産の入った紙袋が落ちてしまいそうになるのを支えながらふと思った。
 もし、彼が死んでいなかったら私は今日という日に侑と共にあのバーでお酒を飲むことはなかったんだろう、と。それどころかこのお土産をもらこともなかったかもしれないし、そもそも仲良くなることもなかったかもしれない。もっと言えば、この仕事だってしていなかった。
 
「⋯⋯付き合ってた人ね、亡くなってるんだ」

 不意をついて出た言葉は案の定、侑を困惑させた。

「は⋯⋯いや、は?」

 言ってしまった自分自身でさえ何故この瞬間に言ってしまったのか分からないくらいなのだから、侑が困るのは当然だろう。
 マンションの前に着くまであと少し。せめておやすみなさいの言葉は笑って言いたかった。

(20.05.26)