火曜日の朝、電車に乗り込んですぐ目に入ったのは佐久早くんだった。いつも通り白いマスクをして、今日は音楽プレーヤーで何かを聞いているようだ。迷って、私は佐久早くんの隣に腰をおろした。
何て声をかけようかと迷っていると、眉間に皺を寄せた佐久早くんがこちらを見る。空いてる電車内でどうして隣に座ってきたんだとかきっとそんなことを思ったのだろう。
「う、わ⋯⋯ビビった、名字か」
ようやく隣に座ったのが私だとわかると、佐久早くんはイヤホンを外して綺麗に片付け、それを鞄にしまった。
「おはよ、佐久早くん」
「ああ、そっか。今日は火曜日だもんな」
当たり前のように隣に座ったけれど、佐久早くん嫌じゃなかったかな。ふと心配になって佐久早くんを見つめる。佐久早くんは嫌なら嫌ってはっきり言いそうだけど⋯⋯と考え込む私に佐久早くんは声をかける。
「なに?」
「いや、佐久早くん隣に誰かいるの嫌かなと思って」
「別に隣座ってて良いけど」
「えっ良いの?」
「名字は何か誤解してる。この状況から移動するとか逆に変だろ」
安堵すると肩の力が抜ける。
少し前までは同じ車両に乗ったことが気まずいとさえ思っていたのに、いつのまにか普通に隣に座れるくらいには、そしてそれを許してもらえるくらいには佐久早くんとは仲良くなれていたのか。
これは、まだ友達として適切な距離感の中にいるはずだ。
「その荷物なに?」
「ああこれ? ヨガマット」
佐久早くんは私が持つ大きな筒上の荷物を見て言った。無難に黒を選んだ私のヨガマットは先日通販で届いたばかりの新品だ。
「いつも友達が持ってるの借りてたんだけど新しいのが届いたから」
「ふうん」
「だから今日すごく楽しみでいつもよりさらに早く起きちゃったんだよね」
「そう」
会話はそこで途切れた。過ぎ去っていくいつもの情景。揺られる電車。降りる駅まではもう少し。ああそうだ。佐久早くんがさっきまで聞いてた曲名聞こうかなと思ったけれど、先に訊ねてきたのは佐久早くんだった。
「ヨガってどうなの」
「え?」
「楽しいのかなって」
「んー⋯⋯鷲のポーズが出来ない」
「鷲のポーズ?」
「足はなんとかなるんだけど、手が全然重ならないの。こう、ほら、これ」
と、私は不格好な鷲のポーズを佐久早くんに見せる。お世辞でも形になっているとは言えないそれをみて、佐久早くんはあからさまに汚いものを見る目をした。
「⋯⋯私は事前に言った。出来ないと」
「身体かたすぎるだろ」
「うっ⋯⋯でもこれ本当に難しくて」
「もう1回見せて」
「⋯⋯はい」
言われてもう一度不格好な鷲のポーズをする。「参考にならない」と一蹴した佐久早くんは自分の携帯で鷲のポーズを調べると見よう見まねで手を合わせた。
「こう?」
「え、何で出来るの?」
「誰でも出来るだろ」
「少なくとも私は出来なかったんだけど⋯⋯」
私が苦労しても出来ないことをやってのける佐久早くんに嫉妬さえ覚える。私と何が違うんだろうと、本当はもっとじっくり見ていたかったけれど佐久早くんはすぐにポーズをとるのをやめたから叶うことはなかった。
「俺は身体柔らかい方だから」
「そうなの?」
「まあ、それなりに」
「羨ましい。ヨガやってたら柔らかくなるらしいけどまだ1ヶ月じゃ無理みたい」
「まあ後1年弱はあるし名字も⋯⋯いや、そもそもヨガは大会あんの?」
「部活としてはないよ。アウトドアのヨガとか行ったりしたいねとは言ってるけど。それだから引退のタイミングもどうしようかって話してる。まあ、それまでには身体柔らかくなるとは思うけど⋯⋯」
「ふうん。まあ、頑張って」
まもなく次の駅に到着するというアナウンスが入る。もう降りなくてはいけない。
まだ佐久早くんが聞いていた曲の名前を聞けていないのに。それに、前に教えてくれたオススメの除菌シートをうちの親が気に入ってストックするようなったってことを報告しようと思っていたんだった。あと、佐久早くんが買ってきてくれた傘、めちゃくちゃ使い勝手が良いとか、残りの時間がないと気付いてから、話したいことがどんどん浮かぶ。
電車は降りる駅に着いて、佐久早くんは立ち上がる。
「降りないの?」
「お、降りる!」
佐久早くんは今日もまた、前の時と同じように私に歩調を合わせてくれていた。
「佐久早くん、私のこと遅いと思ったら先行っても良いから」
「⋯⋯だから、この状況で先行くほうが変だろ」
今度は呆れたように佐久早くんは言う。そういうものなんだろうか。だって私の1歩と佐久早くんの1歩はビックリするくらい差があるのに。
「じゃあ学校まで一緒に行こっか」
「そういうこと言うのはやめろ」
「なんで!?」
「子供みたいで普通に恥ずかしいから」
「ええ⋯⋯」
でも私はまだ。まだまだまだまだ、佐久早くんのことを知らないんだと思う。
(20.09.23)