その日の部活が見学だけで終わると、私は1人薄暗い夜に放たれる。今日は歩くのがゆっくりになってしまうし、友達を巻き込むわけにはいかないと、友達の付き添ってくれるという厚意を丁重に断った。
夏の夜はじんわりと湿気を孕んでいる。さて、駅まで歩くかと気合いを入れると部室棟の上から降りてきた元也と佐久早くんに会った。
「名前じゃん」
「2人も今帰り?」
「そうそう。足どう?」
「痛いは痛いけど」
「部活出たの?」
「見学だけね。動きたくてウズウズする時間だった」
「わかる」
心配しつつも会話のやり取りをする元也に対して佐久早くんは口数が少ないままだった。
「帰り大丈夫?」
「んー⋯⋯何本か遅い電車になるかもだけど歩けるし平気」
駆け込み乗車は出来ないし、点滅する青信号を渡るのも諦めちゃうだろうけど。まあそんなことは些細な問題だ。だから別に平気だとそう答えれば、無口だった佐久早くんが口を開く。
「送る」
「え?」
「駅まで俺が送る」
確かに私と佐久早くんは乗る駅が同じだけど。いや、でも。と私と元也は驚いた顔をした。まさかそんな申し出をされるなんて夢にも思わなかった。
「や、いいよ」
「する。⋯⋯遅いし」
ただでさえ私と佐久早くんの歩くペースなんて倍くらい違うだろうに、今の私に合わせて歩くなんて佐久早くんにとってはストレスそのものなんじゃないだろうか。そもそも私にとっては「ただの捻挫」なのだ。そこまでしてもらう方が過剰な気がする。
「本当に平気だよ。送ってもらうなら元也に頼むし」
「なんで俺?」
「なんか⋯⋯元也が多少家に帰る時間が遅くなってもあまり罪悪感ない」
「ひどいな! そんなに俺が良いなら仕方ない、家まで送ろうか?」
「丁重にお断りさせていただきます」
「いや、断るのかよ」
これだっていつもの冗談のはずだった。元也はちゃんとわかっているようで笑っていたし。まあだから2人は気にしないでいつものように帰ってよって言うつもりだったのに。
言えなかったのは、佐久早くんがちょっと怒った様子で私に一歩詰め寄ったからだ。
「古森は良くて俺は駄目なわけ」
「⋯⋯え」
佐久早くんの言葉は、夏の夜のじんわりと湿気を孕んだ空気に散っていく。「さ、佐久早?」と戸惑いながら元也が声をかけるけれど、佐久早くんには届いていないようだった。
「俺が送る。⋯⋯そもそも怪我させたのは俺だし」
「私、佐久早くんのせいとは思ってないから大丈夫だよ」
佐久早くんの罪悪感は私の想像の比ではなかったということなんだろうか。機嫌が悪いのも全部そのせいなんだろうか。それともただ単に佐久早くんは甲斐甲斐しいだけなんだろうか。
「佐久早、名前が困ってるから」
戸惑う私に元也が助け船を出してくれる。
「俺は嫌なのかよ」
駄目とか嫌とかの話じゃなくて。
幾つもの濃青や紫を混ぜ合わせて垂らしたような空に、ぽっかりと浮かぶ欠けた月が佐久早くんの背後で輝く。夏の夜って、こんな気持ちになる季節なんだっけ。
「嫌じゃないし駄目とかでもないんだけど、捻挫だしそんな大事じゃないかなって、でもえっと⋯⋯佐久早くんの気に触ること言ってたならごめんなさい」
「佐久早、まじで名前がビビっちゃってるから」
元也がそう言えば佐久早くんはハッとした顔をして「悪い」と小さくこぼす。
この場の雰囲気に居心地の悪さを感じながら、どうするべきが正解なのかを考える。見かねて声をあげたのはやはり元也だった。
「あー⋯⋯じゃあ3人で帰ろ!」
確かに1人で帰るのも後味が悪いし、佐久早くんと2人で帰るのも何を話せば良いのかわからない。そうなれば元也が提案した3人で帰るが1番適切のような気がして「い、いいねぇ」なんて強張った口調で賛同した。
おもむろに3人で歩き始めると、真ん中にいる元也が私を見ながら「ごめんな」と言葉にせずに唇だけを動かした。多分それは佐久早くんの代わりに謝っているんだろう。私もまた同じように声も出さずに頭を左右にゆるくふった。
優しさはいつも優しい形を保ったまま相手に届くわけではないことを教えてくれた夜、私達の関係性は多分ゆっくりと形を変えようとしていた。
▽ ▲ △ ▼
その翌週の火曜日、ヨガ部への参加のために早朝の電車へ乗り込むと、真っ先に佐久早くんが私を見つけて声をかけてくれた。
「名字」
「あ、おはよー。佐久早くん今日は電車一緒だったね」
「⋯⋯名字はいつもこの時間だから合わせた」
「えっなんで?」
いつものごとく佐久早くんの隣に座る。どうしてと言った私の質問に佐久早くんは少し気まずそうに返す。
「その足でヨガ出来んの」
「座って出来るのもあるんだ。運動っていうかストレッチって感じだし、気分転換にもなるから全然平気だよ。それに痛みももうだいぶ引いてきたんだよね。部活もそろそろ出られるよ」
「⋯⋯ならいいけど。あと、この間、ごめん」
「この間?」
「帰り。⋯⋯態度。多分、良くなかった」
決まりが悪そうに間をあけて言う佐久早くんの言葉を噛み締める。瞬きを繰り返して、えもいわれぬ衝撃を飲み込んだ。
「や⋯⋯まあ、ちょっとビックリはしたけど、日が経つと嬉しかったかなって」
「嬉しい?」
「それだけ心配してくれてたんだなあって思ったんだけど」
「心配?」
困惑や絶望、それに驚き。私の言葉に佐久早くんはそんなものがぐちゃぐちゃに混ざりあった表情を見せた。間違ったことを言ってしまっただろうかと「ごめんね」と謝れど佐久早くんはなにも言わず、不機嫌ともご機嫌とも言えない表情で私を見つめるだけだった。
夏休み前の最後の火曜日。夏は加速するばかり。
(20.10.09)