修学旅行明けから佐久早くんの様子がおかしいとは思っていたけれど、春高が終わりしばらくしてからはそれがより顕著になった。
「名字」
「なに?」
「ちょっとシャーペン貸して」
「シャーペン?」
冬休み明けにした席替えで離れた佐久早くんは、わざわざ休み時間に私の座る席までやってきてそう言う。その右手に持っているのはシャーペンじゃないの、と佐久早くんの行動を理解出来ないまま私は見上げた。
「えっと、右手のは」
「シャーペンだけど」
「えっシャーペンなの?」
「うん。だから名字はこれを使って。俺は名字のシャーペン使うから」
意味が分からない。そう思う以外になかった。佐久早くんはそう言って右手にあったシャーペンを机に置いて私が私のシャーペンを差し出すのを待っているようだけどこれに何の意味があるのだろうか。
だけど佐久早くんの顔を見ても至って真面目で、むしろ変と思うことが変とすら思えてくるから、私は訳も分からないまま自分のシャーペンを佐久早くんに渡すしかなかった。
「⋯⋯じゃあ、はい」
「ありがとう」
受け取った佐久早くんは気が済んだのか自分の席に戻っていく。それが佐久早くんの奇妙な行動の始まりだった。
▽ ▲ △ ▼
「名字」
そんな風に名前を呼ばれるのは何度目だろうか。今日は一体どんな事を提案されるのかと私は一瞬身構える。ハンドクリーム貸してとか、寒いなら俺のジャージちょっとだけ着てみてとか、別に私にとって嫌なことをされているわけではないけれど、いかんせん予測がつかないのだ。
元也に相談してもわからないと言ってお腹抱えて笑うだけだし、一旦佐久早くんの満足するまで付き合えば自ずと答えも出るかなと思っていると、今日の提案は私の斜め上だった。
「ちょっと確認したい事あるから部活終わりに残って」
「え」
「今日部活ない?」
「あるけど⋯⋯」
「じゃあ予定ある?」
「ないけど⋯⋯」
「ならよろしく」
そう言えば佐久早くんは気が済んだらしく、またいつもみたいに自分の席へと戻っていった。その一部始終を見ていた元也が私の元へ寄ってきて笑いを堪えるように話しかける。
「佐久早もなかなか終わらないな」
「本当になんなの⋯⋯いや別に嫌がらせじゃないしいいんだけど謎過ぎて。元也いとこでしょ。なんかわかんないの」
「分かんないって。本当に謎行動」
そりゃあ時々キュンみたいなのもあるけど、たいていは頭に疑問符が浮かんでキュンどころじゃない。でも部活終わりに残ってとわざわざそんなことを言われるのは今回が初めてだ。今日は一体何を、と思うけど何も浮かばない。
「いいじゃん。楽しそうで」
「楽しい、のかな⋯⋯?」
▽ ▲ △ ▼
部活が終わると友達には約束があるからと言い、私は部室棟の階段に座って佐久早くんを待っていた。1月末ともなればさすがに外で待つのはキツい。身を縮こまらせるように座っていると、少しして佐久早くんが1人でやってきた。
「悪い。寒いのに待たせた」
「あ、ううん。いいよ」
階段の1段目で立ち上がればいつもより近い佐久早くんとの身長差に新鮮な感覚を覚えた。でも佐久早くんはもっと高い位置で世界を見ているのかと思っていると、佐久早くんがいつものように言う。
「手出して」
「手?」
「違う。そうじゃない。手のひらこっちに向けるように。あと手袋外して」
「え、あ、はい」
こだわりが強い。そう思いながらも私は素直に佐久早くんの言葉に従った。佐久早くんが満足するまで付き合うって決めたんだから何でも来いだ。
冬の硬い空気がチクチクと頬を差す。手袋を外した手はまだ暖かいけれど、顔とか耳がもう無理ってくらいに寒くてこのままなら指先もどんどん冷えていく。そう思っていたのに。
私の手を佐久早くんが素手で握った。指と指を絡めて、確かめるように優しく。いや、弱々しいとすら思える力で握られた手は離れる間際1度だけ強い力が込められた。
「⋯⋯え」
驚いて佐久早くんを見上げる。シャーペンの交換とも、ハンドクリームを貸すのとも、ジャージを借りるのとも違う。
驚く私を余所に、佐久早くんは私と重なった手のひらを握ったり開いたりしながらまじまじと見つめると「うん」と小さく誰にでも言うでもなく呟いた。
「名字」
「う、うん」
佐久早くんの考えていることなんてちっともわからない。今までも、この瞬間も。吸い込まれそうな瞳に見つめられる。私の名前は白い息と共に冬の寒空に消えていった筈なのに、ずっと耳に残っている。
「好きだ」
聞き間違えたかと思うくらい、佐久早くんがそう言ったのが意外だった。聞き返すことも出来ずに、ただ瞬きをするのが精一杯で、息をすることすら忘れてしまいそうな星の下で、佐久早くんはもう一度言葉にした。
「俺は、名字が好きだ」
(20.11.06)