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 今年もまた桜前線のニュースが目に入る時期になってきた。寒さが和らぎ太陽の出る時間が長くなったと実感しては、春の芽吹きを感じる。冬は冬で嫌いじゃないけれど、春を待ちわびるこの時期も嫌いではない。
 それでもまだ夜は寒いから、部活が終わった後はマフラーを巻いている。けれどきっとあっという間にそれを外す日はやってくるんだろう。時間って時々びっくりするくらいあっという間に過ぎ去ってく。

「名字」

 聞き慣れた声が後ろから届いて私は歩みを止めた。部活後の薄暗い夜道を帰ろうとした時に呼び止められるのは初めてだった。でも振り向く前にわかる。佐久早くんだ。振り返る瞬間、首の後ろで縛ったマフラーのフリンジが揺れるのが視界の隅に入った。

「え、佐久早くんどうしたの」
「渡すものあるから待ってた」

 なにもかもが意外すぎて咄嗟に言葉が出てこない。今日は部活終るの遅かったけどあのバレー部よりも長くやってたんだなと思いながら、部活終ってから佐久早くんはずっとここで待っていたのかとか、そもそも寒い中なんでとか、聞きたい質問は全部、佐久早くんの瞳に吸いこまれた。
 佐久早くんの耳が赤くなっているのに気が付いて、もしかしたら佐久早くんは想像しているよりも長い時間ここで私を待っていてくれたのかもしれないと思った。そこまでして渡したいもの⋯⋯あ、確かに今日はホワイトデーだけど、え、でもまさか佐久早くんが?
 私が何かを言うよりも前に私に一歩寄った佐久早くんは「一緒に帰ろう」と帰路を促す。火曜日の朝は時々一緒に登校するけれど、部活の終わりに二人きりで帰ることはほとんどないから、夜の色を背景に隣にいる佐久早くんを見上げるのが新鮮だった。

「びっくりしたよ待ってるなんて思わなかったから」
「⋯⋯嫌?」
「むしろ嬉しい」
「なら安心した」

 街灯の明かりは夜ということを忘れるくらいに明るい。何かを隠すことすら出来ぬまま、隣り合って向かう駅までの道のりは短いとさえ思った。いつもより心なしか歩幅は小さい。でもこれ以外にもっと長く佐久早くんと一緒にいられる時間の作り方を私は知らない。

「これこの前のお礼」
「あ、やっぱりそうだったんだね」
「ほら」

 ぶっきらぼうに差し出された小さな紙袋。しっかりとした作りの紙袋は決して安くないと見るからにわかる。佐久早くんはいつどこで誰とこれを買いにいったのだろう。私を思い浮かべて選んでくれたのなら嬉しいけど。

「ありがとう」

 受け取る瞬間に落としてしまわないようしっかりと紐を持てばそれは佐久早くんの手から私の手へとスムーズに渡っていった。一瞬だけ触れた佐久早くんの手は冷たくて、私は少し驚いて佐久早くんを見上げた。

「なに」
「手、冷たい。長い時間待ってた?」
「そうでもない。それに待ちたくて待ってただけだから名字の気にすることじゃない」
「気にするよ」

 佐久早くんに限ってそんな気の緩みはないだろうけど、万が一私が原因で体調を崩そうものなら私はもう佐久早くんにも元也にも会わせる顔がない。
 そう思うと、深く考えるよりも先に身体が動いた。取りやすい位置にある佐久早くんの両手を掴んで、口元に持っていくとハァと息を吹きかける。大きな手を私の手のひらで包み込むようにして、私の熱を全て手渡すぐらいの心意気で佐久早くんの手を暖めようとした。

「え」
「あ⋯⋯」

 とんでもないことをしでかしたと気が付いたのはすぐだった。つい弟にするみたいにやってしまったと私は慌てて手を離す。あこれ絶対アウトなやつ。一瞬にして嫌われてもおかしくないやつ。絶望と自分への戸惑いを混ぜ合わせながら恐る恐る佐久早くんを見上げた。
 
「⋯⋯なに、今の」

 佐久早くんは嫌悪感をあらわにするのではなく、ただひたすらに驚いているようだった。どうしよう。だって絶対こんなの佐久早くん嫌なやつじゃんと焦りが生じる私の視線は徐々に下へと落ちていく。

「あの、佐久早くんの手を、暖めたくて⋯⋯その、何て言うか衝動的に⋯⋯本当にごめんなさい⋯⋯あっ、ちゃんと部室出るときアルコールジェル手に塗ってるし、インフルエンザ予防で⋯⋯だからそこらへんは大丈夫なはず⋯⋯いや、大丈夫じゃないよね。そういう話じゃないよね⋯⋯」
「あ〜⋯⋯いや、うん。そう。⋯⋯わかった」

 もう一度、佐久早くんを見上げる。顔を横に向けてこちらを見ようとしない佐久早くんは、怒っているのではなく、もしかして照れている? それは私にとっての都合の良い解釈かもしれないけれど。

「⋯⋯佐久早くん」
「⋯⋯なに」
「佐久早くん、怒ってるんじゃなくて、照れてたりする?」
「違う、そうじゃない。⋯⋯別に怒ってるわけでもないけど」

 深いため息を吐いた佐久早くんはまたいつもの表情に戻って、今度はちゃんと私を見つめた。いや、違う。いつもの表情じゃない。いつもより、数段優しい顔だ。

「何かをするなら先に一言言って。じゃないと心臓に悪い」
「ご、ごめん。つい」
「⋯⋯いいからもう普通に手繋いで」
「え」
「俺の手暖めたいならそうして」
「う、うん!」
「誤解してそうだから言うけど、手を繋ぐのは嫌とか思ってない」

 駅までの短い道のり。街灯の下を佐久早くんと並んで歩く。歩調はゆっくり。少しでも長くこの時間の中で息をしていたいと私は願っていた。

(20.11.12)

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