31.5話



「名字」

 耳に馴染むようにその声は私に届く。

「どうしたの、佐久早くん」
「今って乾燥する時期だと思うんだけど」
「そうだね」
「さっきハンドクリーム使ってたの見えたから」

 教室の喧騒さえどこか遠い場所にいってしまいそうになるのは、佐久早くんが私の視界を遮るように眼前に立っているからだろうか。
 揺らがない視線を浴びながら、佐久早くんから持ち出す話題としては珍しいハンドクリームという単語について考えた。もしかして佐久早くんはハンドクリームにもこだわりがあるの? と次の言葉を待つ。

「それ、ダメじゃなかったら少し貸してて」

 違った。オススメとかそんな話じゃなかった。昨日シャーペンを交換して使いあったことを思い出しながらポーチからハンドクリームを取り出す。

「これ、ローズの香りだけど大丈夫?」

 貸すのは全然問題ない。でも佐久早くん、私が中途半端に使ったハンドクリームなんて持つの嫌じゃないのかな。薄いピンクのパッケージ。ポーチに入れるにはちょうどよいサイズのそれは残りも少ない。なんならそのまま佐久早くんにあげたっていい。

「ローズ⋯⋯」
「ほんのり香る程度だけど」
「⋯⋯いい。そういうのも含めてだから」
「え?」

 そういうのってどういうの? 尋ねる前に佐久早くんはチューブの腹を押してクリームを手の甲にのせた。ふわりと香ってくるローズ。いつも嗅いでいる筈なのに違う花が咲いたみたいだ。良い香りだと思うけれど、佐久早くんから漂う香りにしては可愛らしすぎて私はちょっとだけ笑ってしまいそうになる。

「確かにたまに名字から香る匂いがする」
「嫌じゃない?」

 何気ない私の問いかけ。佐久早くんは自分の手のひらと私とハンドクリームを見てから答えた。

「嫌じゃない」


▽ ▲ △ ▼


「名字」

 また、だ。今日もまた佐久早くんは私の名前を呼ぶ。次の体育の為にジャージに着替えた私を引き留めたのは佐久早くんで「先に体育館行ってるね」と言うガモちゃんの言葉に私は改めて佐久早くんに向かい合った。
 手にはジャージの上着が握られていて、こんな時期にTシャツだけなんて筋肉がちゃんとついてる佐久早くんでもさすがに寒いだろうと私は眉間に皺を寄せる。

「なにかあった?」
「今、寒くない?」
「えっ」
「俺のジャージ着て」

 差し出されたジャージに戸惑いしか生まれない。質問を質問で返され、寒いと言ったわけでもないのに着てと言う。佐久早くんがからかってこんなことをする人ではないとわかっているけれど、不可解な行動はどれだけ考えても理由がわからなかった。

「一瞬でもいいから」
「一瞬!?」

 一瞬佐久早くんのジャージを羽織ることに何の意味があるのだろうか。
 少し迷って、結局、佐久早くんからジャージを受け取る。ここで押し問答していても体育に遅れるだけだし。よくわからないけれどそれで佐久早くんが納得するのなら、とその場で佐久早くんのジャージに袖を通す。
 重ねても余裕で着られる大きさ。私のジャージから漂う洗濯物の香りに被さるように佐久早くんの香りがする。急に恥ずかしさが増して、文字通り一瞬だけ羽織ったジャージをすぐに佐久早くんに返した。
 ダメだ、寒くてもきっと私は佐久早くんからジャージを借りられない。

「き、着たよ」
「うん」
「これで良かったんだよね?」
「うん。一応」
「一応⋯⋯?」
「名字は今のどうだった」
「どうって?」
「嫌だった、とか」
「嫌じゃなかった」
 
 恥ずかしいけど嫌じゃなかった。本音を隠さずに言えば佐久早くんは納得したのか、ジャージを羽織っていつもより幾分穏やかな声色で言う。

「俺も」

 やっぱり最近の佐久早くん何かがおかしいよ。何がってはっきりとは言えないけど佐久早くんの何かが変わったみたい。
 残り香を辿るようにここ最近の佐久早くんの行動を考えてみたけれど、答えはどこにも見つからない。嫌われているわけじゃないんだろう。むしろ踏み込んでくるような行為は私をひどく混乱させる。

「あのさ、元也」

 体育の休憩時間、近くにいる元也の隣に並んだ。拠り所はもうここしかない。体育館の半面を使ってバスケをしている佐久早くんを見つめながら聞く。

「ん?」
「佐久早くん、最近何かあった?」
「何かって?」
「え⋯⋯なんか、何だろ。変なもの食べたとか自己啓発本読んだとか、よく分からないテレビ番組みたとか⋯⋯?」
「全然話が見えないんだけど」

 ここ最近の出来事を打ちあければ、ボールの弾む音と混ざり合う元也の笑い声。「わかんない。でもすげぇうける」そう言いながら、元也は楽しそうに笑うだけだった。

「元也にもわからないんじゃ私なんて一生わからないままだよ」

 私が佐久早くんの行動の真意を知るまであと少し。それまではもう少しだけ佐久早くんに翻弄される日々が続くのである。

(21.02.25 / 70万打企画)

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