桜の咲く頃に降る雨の事を桜雨と呼ぶらしい。
すっかりと日が落ちた午後8時。住宅街のバス停で、私は途方に暮れていた。
(これが桜雨ってやつか)
バスに乗っている最中、急に振りだした雨。バスを降りて持っていたビニール傘をさそうとした時、一緒に降りたおばあさんが溢すように言った。
「あら、傘忘れちゃったみたい」
品の良さそうな出で立ちのその人は、私よりもずいぶん背が小さい。困ったように暗い空を見上げる様子に私は迷ったけれど、しばらく雨は止みそうにもないしと意を決してその人に話しかけた。
「あの、もしよかったらこれ使ってください」
私が持っている傘もこの1本だけだけど、もし私がここでおばあさんの言葉を聞かなかったふりをして家に帰れば、多分明日も明後日もふとしたときにこの瞬間の事を思い出してしまう。そうなるくらいならば、と私は申し出たのだ。最悪、家族が迎えに来られる時間までここで待てば良いと。
「え? でもそうしたら貴女、濡れてしまうでしょう?」
「折り畳み傘あるし、家が近いので大丈夫ですよ」
もちろんそれは嘘だ。
だけど私の言葉を聞いたその人は少し安堵して暗がりの中、顔を明るくさせた。
「本当に良いのかしら?」
「はい。風邪ひいちゃうといけないので」
「それじゃあお言葉に甘えようかしら。そうだ。お家はどちら? 明日傘を返さないと」
「えっと⋯⋯ビニール傘なので気にしないでください。うちにたくさんあるのでむしろもらってくれると助かります」
だからどうぞ。と言葉を添えて傘を渡す。私には丁度いい大きさの傘も、おばあさんにとっては十分過ぎるくらいに大きかった。あれなら鞄も濡れないなと安心した私に、おばあさんは会釈をする。
「本当にありがとうございます」
「いえいえ」
ビニール傘を大切そうに受け取ったその人は私に何度もお礼を言うと、雨の降る夜の中へ溶けていく。
(さて⋯⋯)
用事があって降り立ったこの場所から家に帰るためには電車に乗らなければならない。ここから駅まで走っていくには遠いし、近くにコンビニも見当たらない。家族にタイミングが合えば迎えに来てほしいと送ったけれど返事はこないまま。
そうして途方に暮れてから数十分、親からの返事は未だなく強まる雨足にいよいよタクシーという禁断の選択を考えはじめた時、やってきたバスから降りてきたのは佐久早くんだった。
「あっ!」
「あ」
「佐久早くんだ。なんで?」
「家この近くだから」
「えっそうなんだ」
「そっちこそ何してんの、こんなとこで」
「用事あって来たんだけど帰ろうと思ってたら雨降ってきちゃって、それで傘なくて今立ち往生してて」
困ったように笑う。
「昨日から散々、今日は雨降るって言ってたけど」
「ああ、うん。そうだよね。知ってはいたんだけど⋯⋯」
佐久早くんは顔をしかめた。バス停の明かりだけが佐久早くんの顔を照らす。横に降る雨はバス停にあるベンチを濡らして、佐久早くんは鬱陶しそうだった。佐久早くんの手には紺色のシックな傘があって、なんとなくビニールを使ってそうだなと思っていたから意外だと感じた。
私は佐久早くんのことをまだよく知らないし、多分それほど仲が良いってわけじゃない。でも同じクラスになって席が隣で、元也と話すことも多いしそれなりに友達として近づいてきたのではないかと思ってはいたんだけど。でも佐久早くんがしたその顔は、好意的なものではないのはよくわかった。
ああ私、佐久早くんのことよく知らないって言うより全然知らないんだろうな。そんな事実を突きつけられた気がした。それが悲しいことなのかは分からないけど。
「事前に分かってたんだから用意はちゃんとするべきだと思う」
「だ、だよね⋯⋯」
そう言った佐久早くんは傘を差して、おばあさんと同じように夜の雨の中へと消えていった。
おばあさんに持ってた傘をあげたと言えば良かったのかもしれないけれど言い訳のようで言えなかった。そもそも佐久早くんに弁明する必要があるかどうかすら私には判断しかねる。それこそ、私と佐久早くんは友達と言うことすら憚れるだろうから。
(何かを期待してたわけじゃないけどさ)
えもいわれぬ感覚が身体を支配する。親からの返事はない。何も出来ずに私はまた数十分立ち尽くす。雨は止む様子を見せない。
そして時間の流れを忘れそうになった頃、影が落ちた。顔を上げて見上げた先にいる佐久早くんに私は言葉を失いそうになる。帰ったんじゃないの? 疑問は言葉にならなかった。
「これ使って帰って」
「⋯⋯え」
「コンビニで買ってきた。名字は古森と仲良いから名字が風邪でもひいてそれが古森にうつったら困る」
「あ⋯⋯ああ、うん。そっか。そうだよね」
新品のビニール傘を受け取る。コンビニに行って戻ってきたという佐久早くんは平然としていて、この行為が佐久早くんにとって当たり前かどうかはわからないけれど私はただ佐久早くんの中にある、ぶれない何かを少しだけ知りたいと思ってしまった。
(20.09.06)