「名前!」
柔らかい声色だった。スマホという機械を介さずにその名前を呼ばれたのはいつぶりだろうか。声も顔も、全てがひどく懐かしく感じる。
それ以外の音や目に入るものがシャットダウンしたみたいに、私の全ては徹に注がれた。
「あ、えっと⋯⋯徹」
あんなにシミュレーションを重ねたはずなのに。到着ロビーで徹の顔を見たら名前を呼んで、久しぶりって笑って、ここまで来るの大変だったよって、迎えに来てくれてありがとうって言えると思ってたのに。
なのに、本人を前にしたら動揺でなにも出来なかった。ずっと会いたかった人が目の前にいる。それがこんなにも緊張をもたらすなんて予想していなかった。
(徹に対して緊張するとか、すごい変な感じ)
果たすべき目的にまたひとつ近づいたようで、心臓が少し早く脈打つのを感じながら、せめて、目の下の隈はちゃんと隠せていますようにと願う。
「おつかれ」
「う、うん」
そう言って徹は流れるような動作で私の手からスーツケースを取っていった。お礼を言うのさえ忘れてしまいそうになるくらい、それはあまりにも自然で、私は慌てながら徹に置いていかれないように隣に並ぶ。
「スーツケース」
「うん、持つ。フライト疲れたでしょ?」
「ありがと⋯⋯」
ブエノスアイレスと比べるとサンフアンの空港は小さい。出口までも迷うような距離ではなくて、それでも私が観光客だとわかるとタクシーの勧誘に何度か声をかけられる。そんな声を一切振り返って、徹は私に歩調を合わせるように歩いてくれた。
「どうだった?」
「試されてるのかなってくらい、しんどかった」
「ははは。本当、よく来てくれたよ」
徹の横顔を盗み見る。背が高くなった気がする。髪型も変わった。体格が一層しっかりしたし背筋もなんかぐっと伸びて、ちょっとだけ、私の知らない人みたいと思った。
私も。私もそんな風に、思ってもらえたんだろうか。今更どうする事もできないとわかっているのに、前髪を手櫛で整える。
「チームメイトが車出してくれてるから、ホテルまで直行していいよね?」
「うん。わざわざありがとう」
「わざわざは本当にこっちのセリフだって」
向けられた優しい笑みは私の心を揺さぶるのに十分だった。
(本来の目的を見失わないようにしないと⋯⋯)
空港内に響くアナウンスも目に入る看板も、英語以外は全くわからない。英語だって少ししかわからないけど、堂々たる風貌でここにいる徹は、凄すぎてちょっと置いてけぼりをくらった気分だ。
私がそうであったように、徹も私の知らない時間を、知らない人達とたくさん重ねたんだろう。それがすぐに分かるから、余計に心は揺れるのだ。
「⋯⋯なんか徹はここにもう10年くらい住んでるような感じだよね」
「老けたってこと!?」
「あ、いや。じゃなくて⋯⋯」
空港を出て目の前に広がる風景。冬が過ぎ去った後の春は、日本のそれと同じように暖かさと冷たさが混ざるような風で、似たような空気に南半球と言うことを忘れてしまいそうになる。それでも違う。日本とは、全然違う。
私が、バイト代と最後の夏休みを使ってやってきた場所はここなんだと思うと、急にふっと肩の力が抜けた気がした。
「思ったより田舎だね」
「だから言ったじゃん。何もないよって」
「うん。何もなさそうな予感しかしない」
でも嫌じゃない。ここが徹の選んだ場所なんだなと思うとむしろ、好きになれそう。深く息を吸う。太陽の光が注がれて、これからこの国は夏に向かって動き出すのかと思うと少し心が躍った。
「まあでも、良い場所だから」
「そんな気がする。それに、徹がいる場所だし」
あの車と、徹が数十メートル離れた青い車を指差す。
「チームメイト、ニコラスって言うから」
「わかった」
「英語出来るけど、名前大丈夫?」
「うーん⋯⋯わかんなくなったら徹に聞く。スペイン語寄りのアクセントだとちょっと自信ないかな」
「大丈夫。皆良い奴だから」
空を仰ぐ。帰国までの数日間、私はその空の下で過ごす。
車から出てきたニコラスが手を上げたのがわかって、私も同じ動作を返した。旅はまだ始まったばかり。アルゼンチンの空は優しく私の背中を押してくれるような気がした。
(21.01.24)