『え!? こっちくる? 本気?』
大学4年生になったばかりの春、アルゼンチンにいる徹にそう伝えればスマホの向こうでひどく驚いた声が響いた。午前に講義が入っていない月曜日の朝10時。裏側にいる徹は1日前の夜を過ごしているんだと思うと妙な感覚になる。私はこれから大学に行く準備をはじめるのに、徹は眠る準備をする。時差12時間。地球は大きいと言うことを嫌でも知らしめられる。
「会いに行くからって言ったの覚えてないの?」
『いや、覚えてるけど、でも、え、どれくらい遠いかわかってる?』
「わかってるよ。航空券もすっごい高かったし」
『⋯⋯なんで急に』
好きだから。
本当のことは言えるわけもない。
徹よりも一足先に太陽の光を浴びて、朝とも昼とも言えない食事をとる。咀嚼を繰り返して、徹に告げられる理由を探した。
「社会人になったら絶対に行けないから」
これもまた本当だから、嘘ではない。今、この機を逃したらきっとそのチャンスはもう訪れない。だから、顔を見て、思いの丈をぶちまけて、それでちゃんと恋を終わらせる。たくさんたくさん育ったこの恋はそれくらいしないと多分、枯れてはくれない。
1番の理由を、2番目の理由に隠して伝えれば徹は納得した雰囲気を見せた。
『確かに来るだけで数日かかるから働いたら無理か』
「だから夏休み向かうけどいいよね?」
『止めないけどさ、国試は?』
「⋯⋯だ、大丈夫。普段からたくさん勉強してる」
食い気味に言えばいよいよ徹も食い下がる理由がなくなったのか「わかった」と、それだけを口にした。強引すぎたかな。いやでも強引に成し遂げないといけない。これはいわば私にとっての儀式みたいなものだから。
『ひとりで大丈夫?』
「誰かと行く理由のほうが見つからない」
『⋯⋯なんかあった?』
「なんで?」
『いや、名前のことだから衝動的にってわけじゃないんだろうけど、そこまで意思曲げないの珍しいなって』
「徹は私が遊びに行くの嫌なの?」
『じゃなくて! 大丈夫ならいいんだけど、心配だし。来てくれるのはフツーに嬉しいよ。それこそ名前が初めてじゃない? ここまで来てくれる人なんて』
遠く離れた地にいる徹が柔らかく微笑んだ。それだけで私は嬉しくなるし、行くことにより深い意義を見いだせる気さえする。
「⋯⋯リクエストあるなら、日本から持っていくけど。味噌とか」
『ピンポイント』
「醤油でもいいし、ポン酢でも」
『あ、じゃあ』
「うん」
『作ってよ、ご飯。俺の為に。アスリートメニュー。名前が頑張ってきたこと、知りたい』
揺らぐな。気持ちよ、揺らいでくれるな。
徹のことをまだ好きでいたいと思う気持ちを押し込める。
『どう?』
「⋯⋯うん、いいと思う」
私も頑張ってきたよ。知らない場所で徹が頑張ってきたように、はじめが頑張ってきたように、私も私の夢をちゃんと頑張ってきた。始まりこそ徹がきっかけだったけど、これはもう私の夢だ。徹がいてもいなくても、私が目指したい未来。いつか交わることを願って私が生きていく道。
『昔、名前がオムライス作ってくれたの思い出した』
「あったっけ? そんなこと」
『ほら、小学6年くらいのとき? 親がいなくて3人で留守番してたじゃん』
「そう言えばあったね、そんなこと」
『最近お母さんと作ったからって、出てきたオムライスの味がしょっぱかったの忘れられない』
「⋯⋯忘れて。今すぐ」
『まあ今となってはいい思い出だから』
こんなにも長いこと好きでいたのに、私は本当にこの気持ちを手放せられるんだろうか。
「⋯⋯もう、失敗しないよ。オムライスも、それ以外も。誰かの為に、その人だけの食事をつくれるような、そういう道を選んだから」
でも手放すんだろう。ゆっくりと、線を引くようにこぼしていくんだろう。いつか振り返って、ああこんなに長いこと恋をしていたんだなって懐かしむんだろう。
『そっか。なんか逞しくなったね、名前』
「そりゃあ高校卒業してアルゼンチン行くような人が幼馴染にいるからね。逞しくもなりますよ」
『カッコよくて焦る』
「なんで」
『会えるの、楽しみにしてる』
「うん。私も」
その半年後、それはようやく現実となるのだった。
(21.01.22)