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 春の柔らかい日差しが日本の残暑を忘れさせる。数十時間前にいた日本の空気を思い出すと、距離と共に季節を超えたのが不思議でならなかった。
 ニコラスの車の後部座席に座り、流れる景色を見つめる。道の端にあるなんの広告かもわからない看板。アルゼンチンの芸能人らしき人が映っているポスター。車のステレオから流れる音楽も全て私にとっては未知のもの。

「名前お腹空いてる?」
「んーん。どっちかっていうと時差がやばくて眠い」
「今日はホテルでゆっくりしてるほうがいいかもね」
「うん。それに徹、午後から練習あるんでしょ?」

 もともと初日は疲れを取るために予定は入れていない。徹も練習があるみたいだし、初日から予定を詰め込んで体調を崩すわけにもいかないと私は車の心地よい揺れに逆らいながら徹の言葉に返事をする。

「必要なら夜に名前のところ行くけど」
「いいよ。夜はテイクアウト出来そうな所で買ってホテルで食べる。明日の為に!」
「明日は1日時間つくれるから」
「ありがと」
「来てくれたんだし、出来る限りのもてなしはするって」

 もてなし。徹は私が滞在する間は出来る限り時間を割いてくれると言っていたけど、別にそんなに無理してくれなくても良い。同じ場所。同じ時間。同じ景色。それらを共有出来るだけで、ぐっと心の中が満たされるような感じがする。
 眠気に逆らうことにも諦め夢の中へと落ちる手前、かろうじて届く声量と滑舌で言葉を紡ぐ。

「いいよそんなに気にかけないで。あ、でも、徹のバレーしてるところ、みたい」

 まどろみの中、わかったと言われた気がして私は眠りへと誘われていった。


◇  ◆  ◇


「えっ8日分の宿泊予定しかない? うそでしょ⋯⋯」

 空港から数十分車を走らせ、日本で事前に予約していたホテルでチェックインをした時、私のミスが発覚した。困った顔をする私とホテルの従業員の間を取り持つように徹が話をすすめてくれる。

「予約サイトからの連絡も8泊分になってるって」
「私の9泊目⋯⋯」

 私も予約完了時に来たメールを確認すると、確かに8泊目分の予約しか記載されていなかった。ミスしたのは私だ。

「⋯⋯確かに私のミスです」

 やってしまったと項垂れる私を横に、徹はテキパキとホテルの人と会話する。流暢に出てくる英語。時折混ざっているのは多分スペイン語で、日本語を話さない徹はやっぱり違う人みたいだと、尊敬と共に少しの寂しさが入り混じる。

「今1泊分延ばせないか聞いてみたんだけど、その日サンフアンで大きなシンポジウムがあるみたいで延泊は無理みたい。近隣のホテルも満室なんじゃないかって」
「⋯⋯B&Bとかホステルなら空いてるかな?」
「空いてるかもしれないけど、俺が心配だから出来るだけ治安いい場所の大通りのホテルにしてほしい」
「徹、意外と過保護だね」
「ここでは名前の保護者のつもりでいるから」
「保護者」

 肩透かしをくらったような、そんな感じ。いや今更どうこうなんて言わないけど、とうとう徹は私の保護者にまでなってしまったのか。
 きっと夢にも思ってないだろうな。私から好きだと言われるなんて。

「1泊なら俺のところ泊まる? 次の日空港行くのにどっちにしろちょうど良いし」
「徹の家に1泊」
「まあ名前が来てもそんなに狭くはないはずだし。あ、それにほら」
「それに?」
「約束、果たしてよ」

 会いに行くと伝えたときに交わした約束。それは告白するという目的と同じくらい、私がどうしても果たしたいものだった。
 断るべきかどうか一瞬迷ったけれど、きっときっかけはもうそこしかない。「じゃあ9泊目よろしくお願いします」と言えば、徹は笑みを浮かべた。
「任せて」

 問題が解決したならとホテルの人が宿泊に関する注意事項を教えてくれる。鍵の管理、朝食の時間、フロントの番号、その他色々。疲れる身体に鞭打ち頭の中に情報を入れると、ようやく部屋のカードキーを渡された。
 
「徹、ありがと。とりあえず部屋行って休むね。明日はちゃんとした私で会うから」
「今日はちゃんとしてないの?」
「今日はボロボロ」
「じゃあ明日の為にもゆっくり休んで」
「うん。本当にありがと。ニコラスにも車出してくれてありがとうって伝えておいて」

 ホテルを出ていこうとする徹に手を振る。1度は背を向けた徹が、何かを思い出したかのように振り返り、そして、訊ねた。

「ねえ」
「なに?」
「サンフアンて本当に何日も観光できる場所じゃないけどなんで9泊にしたの?」

 1度大きく息を吸って、これまでの自分を振り返るように恋してきた気持ちを思い出す。

「暮らすような時間を過ごしてみたかったんだよね」
「暮らすような時間?」
「カフェで本を読んだり、勉強したり。スーパーで食材買って調理して、適当にテレビ見ながら食べるような時間」
「だからコンドミニアムタイプのホテルにした?」
「うん」

 だって知りたかった。近付きたかった。自分が恋心を捨てる街はせめて、良い思い出であればいいと思うから。

(21.01.26)

※ホステル⋯一部屋にいくつかのベッドがあり部屋を共有するタイプの宿泊施設。
※B&B⋯ベッドアンドブレックファーストの略。朝食付きの宿泊施設。家族経営等が多い。
※コンドミニアム⋯キッチンやリビング付きの宿泊施設。


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