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「じゃあおやすみ」
「うん、おやすみ」

 すっかりと外が暗くなって、徹は当たり前のように私をホテルまで見送った。夜ご飯を食べた後、結局空を見上げながら歩いてホテルまで戻ってきた私の脚はさすがに疲労困憊で今にもベッドに身体の全てを預けたい衝動に駆られる。
 よれたメイクを心配しながらも、もう今更どうしようもないと心にいる惰性の塊が小声で呟く。心地よい空気が身体をまとうのを感じながら終わろうとしている2日目に想いを馳せれば充実感と共にやってきたのはほんの少しの胸を締め付ける切なさだった。

「しあさっては夕方からフリーだからまた来るよ。明日と明後日も練習が早く終われば夜ご飯は一緒に食べたいと思ってるけどどうなるかわかんなくて」
「いいよそんなに気にかけてくれなくても。ひとりでもちゃんと出来るよ、大人だからね」
「大人でも俺が連絡出来る時はするようにするから」
「そんな彼氏みたいなことを言わなくても」
「ここでは名前の彼氏であり兄であり父のつもり」
「役割兼任しすぎじゃない?」
「名前は彼女と妹と娘のつもりでいてよ」
「⋯⋯いやいや幼馴染でしょ、ただの」

 徹の言葉にいろんな感情がこみ上げたけれど何一つ言葉にはならなかった。過保護過ぎる。そう小さく呟いた言葉は徹には届かない。でもこれは特別ではない。私じゃなくて違うだれかが徹に会いに来ても徹は同じようにするのだ。
 それが徹なりの、自分に会いにアルゼンチンまで来てくれた人へのおもてなしの仕方なのだ。

「せっかくのアルゼンチンなんだし楽しんでもらいたいじゃん? またアルゼンチン来られるかどうかなんてわかんないんだしさ」

 そうだね。私がアルゼンチンに来るのはきっとこれが最初で最後。今見える星空も木々が揺れる音も頬を撫でる風も、アルゼンチンを発ってしまえばもう2度と得られないものだろう。

「それだとツアーガイドじゃん」

 徹は「確かに」と言って笑った。ぎゅっと締め付けるような胸の痛み。夜が私に加勢したせいだ。

「徹も練習頑張って」
「うん」

 優しい瞳の中にいつまでも存在していたかった。でも夜が深くなれば深くなるだけ私達は一緒にいられない。もう一度「おやすみ」を言葉にする。昔のように。気持ちが過去へと舞い戻っていくのを堪えて私は行く先を見据えた。
 私がホテルに入るのを見届けてからその場を去った徹をホテルのロビーから見つめながら私も部屋に戻る。ようやくベッドに身体を預けることが出来て一息つく。
 明日は何しよう。どんな風に過ごそう。目を瞑りながら考えて想像を巡らせるとついそのまま眠りに落ちてしまいそうになるけれどどうにか堪えて薄くまぶたを上げた。せめて化粧だけは落とそうと洗面所に向かい鏡面に写る自分を見つめる。
 22歳になった素直な私は、今日、徹の瞳にどう写っていたのだろう。

(アルゼンチンに来られて良かったな)

 同じことを最後の夜にも思える自分でありたいと願う。同じ街にいる徹の顔を思い浮かべながら、夜を迎える準備を始めるのだった。


◇  ◆  ◇


「名前ちゃんはさ、及川と岩泉と幼馴染なんでしょ?」
「うん」
「試合いつも観に来てるじゃん」
「だね」
「及川か岩泉のどっちかのこと好きだったりすんの?」
「⋯⋯花巻くんにそんなこと聞かれるとは思ってもいなかった」
「興味本位だから言いたくなかったら全然良いんだけど」

 あれは確か高校1年生の冬くらいのことだったかな。たまたま化学の実験で一緒のペアになった花巻くんの瞳は確かに好奇心で溢れていた。早々に実験レポートを書き終わって暇なのか、それとも前々から聞いてみたかった質問なのかはわからないけれど、私は迷うことなく答える。

「普通にただの幼馴染だよふたりとも」
「そっか」
「うん」
「及川は腹立つくらいモテるから名前ちゃんも好きなのかと思ったわ」
「徹はモテるけど、好きになるならはじめのほうをオススメするかな」
「なんで?」
「んー⋯⋯徹を好きになったら辛いことの方が多いと思うから」

 少し迷ってそう言えば花巻くんは意外だと言いたげな表情をして、結局笑った。

「幼馴染でも思うんだ、そういうこと」
「幼馴染だから思うかな」


◇  ◆  ◇


 なんでそんなことを思い出したんだろう。窓の外に広がる朝の景色を見つめながら不意に思い出したのは高校時代の事だった。とりとめもないような会話、多分花巻くんは忘れてるだろうに。

(あの時もし花巻くんに徹が好きなんだよねって言ってたら何か違ったのかな)

 あの時それが出来なかったからここにいるのにそんな仮定の話を考えてしまう。
 好きになって辛いこともあったけど、楽しいこともたくさんあった。背中を押してもらえたことも、知らない景色をみれたこともある。あの時そう言えてたら花巻くんはきっと「大袈裟すぎ」って言って笑ってたかもしれない。
 再び巡ってきた朝はまた少し私を大人にする。日本から遠く離れたアルゼンチンの地で朝日を浴びながら私の旅はゆっくりと終わりへと近づくのだった。

(21.03.26)


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