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 3月の夜は気温が冷たくて、これから春がやってくるなんて信じられないと思った。厚手のカーディガンを羽織って近所の小さな公園のブランコに座る。
 人通りはない。背の高い街灯が私達を照らして、民家の窓から漏れている光は温かそうだった。シーソーと砂場と鉄棒と回転式のジャングルジムと。そんなわずかばかりの遊具が置かれたこの公園の景色に小さい頃は心を躍らせていたのにいつの間にかそんな好奇心もどこかえ消えてしまった。

「準備は終わった?」
「さすがに明日出発だし終わってる」
「そっか」

 明日、徹は日本を発つ。遥か遠く離れた日本の裏側、アルゼンチンへ単身渡るのだ。

「無事に着いたら連絡してね」
「了解」
「はじめはなんか言ってた?」
「途中で投げ出して戻ってきたら許さないって」
「おお。はじめらしいね」

 徹が途中で投げ出して戻ってくることなんて絶対にないってわかっているから言える言葉だ。正直、明日徹がアルゼンチンへ行くなんて実感はない。明後日もその次の日もまたここで会えるような気がしてならない。

「名前は引っ越しの準備進んでる?」
「ぼちぼちね。新しく買うものばっかりだから荷造りより荷解きのほうが大変だよ」
「そっか」

 だけど、明日が過ぎてしまえば私達はもう気軽に会えなくなる。距離約18000キロメートルが私達を阻んでこんな時間はもう気軽に過ごせなくなるのだ。どれだけ実感出来なくてもそれは確実にやってくる未来だ。

「みんなバラバラだねぇ」
「名前も上京組だしね」

 深いため息を吐き出すように言う。感慨に耽け、これからの日々を思い描こうとしてもそれはまだ上手に描けない。それぞれがそれぞれの未来に向かって進んでいって、目線の先に徹がいなくても私はきっと徹のことを好きなままなんだと思う。

「頑張れって言葉の語源って我を張るってところからきてるんだって」
「え?」
「頑張るのってしんどかったり、辛かったり、やめたくなったりするときもあるけどさ、でも徹は頑張ってね。しんどくても自分を貫き通してね。わがままでもがむしゃらでも、徹は徹の我を張ってとことんやり続けてよ」

 その言葉が重荷になりませんようにと願いながら伝える。空を見上げると幾多の星が輝いていて、私は徹にアルゼンチンへ行くことにしたと告げられた時のことを思い出した。
 アルゼンチンのことは今もネットで調べた知識くらいしかないけれど、日本語も通じない、風土も慣習も違う国へ行こうとしている徹のことを私は尊敬する。

「私も日本で頑張る」

 いつかこの夜を懐かしむ日が来るだろうか。それともあっという間に忘れてしまうだろうか。月の光も、砂場に置き忘れたおもちゃも、座ったブランコの乗り心地も。きっと私は何一つ手放せられないような気がする。

「名前が頑張るのに俺が頑張んないわけにはいかないか」
「そうだよ。途中で投げ出して戻ってきたら許さないからね」

 徹が優しく笑う。月明かりに照らされて幻想的とさえ思えた。子供でいられる最後の夜のような気がして簡単にこの夜を手放せない。
 だからもう少しだけと願う。もう少しだけ。もう少しだけ。2人きりですごす最後の夜の中にもう少しだけいさせて、と。


◇  ◆  ◇


「行っちゃったね」

 仙台駅で新幹線に乗り込んだ徹を見送って私は隣に並ぶはじめを見上げた。発車の合図と共に新幹線はあっという間に姿を見せなくなり、取り残された気分にほんの少し寂しくなる。
 徹の家族や青城のメンバーが駅に集まって、その中に自分がいられて良かったと心底思った。これから何時間もかけて徹はアルゼンチンへ向かう。その事実がじわりと私の理解を広げる。

「大丈夫か?」

 はじめの言葉に私はちょっと救われた。大丈夫。なんか、意外と大丈夫。

「平気。私も私でやることたくさんあるし! 徹にもはじめにも負けないようにたくさん勉強しないとってむしろやる気に満ちてる」

 ああ。だけど結局、最後まで自分の気持ちは伝えられなかったな。心残りとは少し違うけれど、後悔にも似た気持ちが芽生える。どうせ大人になってしまうのなら、子供でいられるうちに伝えておけばよかったかな、なんて。

「お前は逞しいよ」
「え?」
「あいつは時々どうしようもねぇくらいクソだけど、名前の気持ちは何も間違ってねぇからな」
「⋯⋯そうかな?」
「おう」
「はじめがそう言ってくれるなら長い片思いも救われる気がする」
「俺らは日本で頑張ろうぜ」

 はじめが徹の幼馴染で良かった。そして、そんな2人に出会えて良かった。そう思いながらうん、と小さく頷いた。
 まだ肌寒い春の日。私達はバラバラになった。同じ学校へ通うことも、同じ制服を着ることも、同じ駅を利用することももうない。
 いつかまた交わることを願って私達は大人になるための道を進む。またね、と心の中でもう一度だけ呟いた。

(21.05.16)
※頑張れの語源は諸説あります。


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