21



「名前!」

 会場のロビーで私に駆け寄る徹に周りの視線が集まるのがわかった。コートの中にいると忘れてしまいそうになるけれど、普通に生活していると背の高い徹はどうしたって目立つ。そんな視線にも慣れているんだろう、徹は気にする様子もなく言葉を続けた。

「ありがと、来てくれて」
 
 汗で湿ったままの髪の毛を見つめる。あんなにたくさん動いて大変そうなのに徹は平然とした様子で、試合後の疲労感はまるで感じられなかった。

「ううん。試合観られて本当によかったよ。それより私のところに来て大丈夫なの? チームで試合後のミーティングとかあったり⋯⋯」
「ちゃんと許可とって抜けてきてるから。って言ってもそんなに長く話は出来ないんだけど」

 そっか。クールダウンが終わってすぐ来てくれたのかな。苦笑しながら言う徹に「ありがとう」と伝える。そのままその瞳を見つめて、思ったことをそのまま口にした。

「凄いね、徹」
「え?」
「強くなったなーって」

 徹は昔から努力家で負けず嫌いで時々それが心配でもあったけれど、アルゼンチンでもきっと同じようにたくさん努力したんだなってわかる。わかるからこそ私の知らないところで努力を重ねてきた徹は知らない人みたいで、ああこうやって私達は大人になっていくんだろうねって思ってしまった。
 良くも悪くも私達は互いのことをよく知っている。深く理解出来るくらい近くにいた。でもこれから先、お互いの知らない部分が増えていく。伝わらない感情が増えていく。それだけ。ただ、それだけのこと。

「全員倒すつもりだからね」
「全員?」
「そう、全員。だからそれまではまだまだ強くなったなんて思えない」

 それはどこか誇らしさも感じられる声色だった。全員。徹の指す全員はどこまでを指すのかわからなかったけれど、その決意の強さにきっと大丈夫だと思えた。

「そっか。楽しみだな。徹が全員倒すの」

 その時、徹の一番近くにいるのは私じゃないけど。それでも、ずっとずっと努力をし続けた徹が誰よりも輝く栄光を手にしますようにと願う。

「じゃあ俺そろそろ戻るね」
「うん。時間作ってくれてありがと」
「明日のこと、夜に連絡するから」
「わかった」

 背を向けて控え場所の方に向かって行く徹を見つめた。ゆっくりとまぶたを下ろしてもう一度試合を思い返す。深呼吸をして気持ちを落ち着かせて。

(⋯⋯うん)

 観ているだけだった。応援するだけだった。
 でも今は私自身の夢がある。徹と出会ったことで目指すようになった夢。徹がここで頑張るのなら、私だって負けないくらい頑張りたい。
 一人で日本からアルゼンチンまで来ることが出来た。知らない街を歩いてお気に入りの場所を見つけた。スペイン語の挨拶はいくつかわかるようになった。
 徹のことを好きじゃない自分になっても大丈夫。私はもう、私のために私のやりたいことを選んでいける。


◇  ◆  ◇


「お土産は全員分買ったし、買いたいと思ってたものも買えたし⋯⋯」

 試合観戦を終え、いつもよりも早めにホテルに戻って明日のチェックアウトのための準備を始めた。来る時はスーツケースの半分は空だったのに今はパンパンに中身が詰まっている。
 徹の部屋でスーツケースを開けることがないようにとサブバッグに必要なものを詰め込んでスーツケースの鍵をかけて部屋を見渡した。9日間お世話になったこのホテルとも今夜が最後の夜と思うと名残惜しくなる。
 さすがにこれだけ長く滞在すれば勝手もわかって快適な空間になってきたのにもう二度と来ることがないなんてむしろ不思議な気分だ。

『おつかれ。今日本当にありがと。明日チェックアウト何時だっけ?』

 試合後のミーティングが終わったであろう徹からの連絡にすぐに返信する。

『11時だよ。多分時間ギリギリでフロント行くと思う』
『じゃあ50分にロビーで待ってるようにする』
『ありがとう〜』
『部屋に荷物置いたほうがいいだろうから一旦俺の部屋向かって良い?』
『うん。それでお願い』

 1人で寝るには大きすぎる、ダブルサイズのベッドに身を委ねる。とうとうその日がやってくるんだな。言えるかな、ちゃんと。いや、言うって決めたんだから言わないと。何のために遥々ここまでやってきたんだってはじめに笑われちゃう。

 私の旅も終わるのか。

 ここに来たばかりの頃を思い返しながら時計の針が動く音に耳を傾ける。ゆっくりとゆっくりと日々は進んだ。アルゼンチンで積み重ねた時間もまた、私達にとって優しいものでありますようにと願いながら夢路へと誘われていった。
 
(21.05.23)


priv - back - next